文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年9月18日】中国共産党による迫害を受けて以来、中国共産党と関わりのある人や物事に対して、同情する心を抱かなくなりなりました。そして、共産党に迫害され、毒害されている人々が真相を知り、その邪悪と暴力をはっきりと認識してくれれば、幸いであると思うようになりました。また、共産党と関係するチャリティー活動に参加している人達の事を不憫にも思いました。彼らは、国民を騙し、善良な人々を迫害している共産党の味方なので、国民の支持を集める資格はないとも思いました。
これまで何年間もずっとこのように思い、そして、実際に、行動にも移していました。しかし、ある日、ふと共産党が歴史的にも有名な清官である包拯(ほうじょう・(999年 - 1062年)は、中国・北宋の政治家で、腐敗した官界に異を唱え、次々と巻き起こる難事件を解明した)や海瑞(かい ずい ・(1514年 - 1587年)は中国明中期の政治家。時の嘉靖帝に対して激しい直諫を行い投獄されたがのちに釈放された。清廉潔白な官僚として評価を得ている人物である)への評価を思い出したのです。これらの清官は封建社会の政治を維持し、また、彼らの思想も一定なものに限られていました。つまり、昔の清官や各民族のリーダーが封建社会を維持しているのと同じように、チャリティー事業が中国共産党の統治を維持しているという私の考えも浅く、狭かったのです。共産党に植え付けられたこれらの思想観念は、何十年間も私を支配し、今、漸くこのことに気づかされました。
「結果を問わず、善き行いをせよ」とよく言いますが、この言葉には、どのようなシチュエーション( 立場。状態)で、あるいは、誰に対して善き行いをするのかについては定めていません。つまり、ただ単に「善き行いをせよ」なのです。いつであれ、どこであれ、誰であろうと関係ないのです。私達もそうするべきではないでしょうか。自らの善良さを表現することは、他人とは全く関係ないことです。包拯は民のために悪を懲らしめ、いかなる権力者を目の前にしても頭を下げませんでした。彼の行いこそ伝統的な人類の道徳基準で、宋の皇帝を支持しているわけではありません。そして、彼の道徳観と行いは時を超え、千年後の今でも、民に讃えられています。
刑務所から出てきた同修たちと知り合い、彼らの話を聞いて、とても感動しました。大法弟子たちを迫害している警官や囚人たちは、もう救いようがないと思う同修もいれば、迫害を通じて、正念が固まり、悪人を制止し、同時に、自分たちの安全をも確保しようとする同修もいます。そして、依然と優しい心を保ち、悪人と争わない同修もいますが、このように思う同修は比較的に軽めの迫害を受けた者です。人心の表れは人によってそれぞれ異なります。刑務所は利益のトラブルや人心が、より過大に表現される場所であるため、いかなる人間でも、あのような極めてピリピリとした敏感な環境の中にいれば、例え些細な事でも極めて大きな利益の問題に発展していく事があり、誰もが自分の利益のために悪事をせざるを得ない環境でもあります。そのため、刑務所の中にいる多くの同修たちは、自分たちの執着心も拡大され、修煉者としてあるべき状態や正念を保つことができず、「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」[1]ことを維持することも困難になってきます。そして、多くの同修が以前の私と同じように、共産党を酷く嫌悪し、迫害を受けている環境の中で自らの善良な面を現したがらず、ただの傍観者になる事が多いいのです。
多くの同修は、迫害されている中で正念を強めなければならないと強調していますが、では、正念の表れとは一体何でしょうか? 正念はどこから生まれるのでしょうか? 人と争い、他人を呪い、中国共産党を恨み、悪を持って悪人を制することが正念でしょうか? いいえ、全然違います!! 正念は法への信念と、「真・善・忍」から生じるものです。師父はこのように説かれました。「皆さんに教えますが、他でもなく慈悲をもって衆生に対処し、人々に真相を伝え、大法の尊厳を守ることです。これであなたは大法の尊厳を守ることができるようになります」[2]
しかし、迫害されている環境の中で、このような普遍的な現象が存在しています。多くの同修は普段では、利益や名誉などを淡くみて、いかなることに対しても無頓着でいられます。しかし、環境が変わると、ほぼすべての執着心が現れてきて、ネガティブな思考に陥り、自らの忍耐力に頼って物事を我慢することしか出来なくなるのです。刑務所内の警官や囚人たちは本当に悪人でしょうか? 警官に迫害されてから私は15年もの間、ずっと警官たちを憎んでいました。しかし、再び迫害を受けた時、漸くこの大きな執着心に気づいたので、憎まず、愛さず、全てを放下するように努めました。邪悪の警官を操っているのは旧勢力なので、その背後の邪悪な生命を排除すれば、その警官はすぐに優しくなるのです。囚人達も同じで、真相を聞いた後、その心の中の善良な念が、なんと私と融合することが出来たのです。正念は慈悲な力です。この力はいかなる邪悪をも除去することができ、衆生を救い、そして、私たちの執着心を消すことも出来るのです。けれど、この力は無私無我であり、「真」から、「善」から、そして、「忍」から生まれるのです!!
色欲心に関して、師父はこのように説かれました。「先日、わたしは『佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる』ということをお話ししましたが、それはつまり、われわれの身体から発散されたエネルギーが、あらゆる間違った状態を正すことができるということです。したがって、この場の働きの下で、あなたがそういうことを考えないかぎり、知らずしらずのうちにあなたの配偶者も制約を受けるようになります。あなたがそんな念を起こさなければ、あなたはそんな念を起こすわけもないのですが、相手もそのことを思いつきません」[1] 佛様の力で世間を普く照らすには、まず、私たちの心を清め、常に正念を持ってこそ、周囲の人々を普く照らすことができ、礼儀も圓明となるのです。私たち自身がまだ憎み、怖がり、大法を疑っているようでは慈悲なる力など、全く現れてくるはずはありません。ません。邪悪に迫害されている環境の中で、憎まずに正念を保つことは難しいかもしれませんが、それでも、私たち大法弟子はいかなる環境においても、正念を保つべきではないでしょうか! イエス・キリストはかつて牢獄に入れられ、残酷な迫害を受け、終いには肉体まで失いました。しかし、逆に考えてみれば、正念がないままで、このような事が出来るでしょうか!
釈迦や老子、イエスがいた時代では、覚者たちは多くの道理や宇宙の真理について説かれました。しかし、人間はいつも後々になって、漸く覚者たちが説かれたことを理解できるのです。私たちは師父が法を広め、法を正すこの時代に生まれてきましたので、この機縁をより大切にしなければなりません。師父が説かれた全ての法は真理なので、私たち大法弟子が実践しなければなりません。真の功は、私たちが日常において、いかなる時や場所においても、善良な心を持って他人と接し、一つ一つの思想や念を正していく中で、修め出るものなのです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」