各界4人のエリートが 九死に一生を得た物語(二)
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年9月19日】

 2. 音楽創作の「芸術家」李季明さんが死の淵で新しい命を得る

 李季明さんは、かつて航空宇宙産業関係の会社の310号支社のオーディオ・ビジュアルセンターで、音楽創作に従事していました。1997年3月以前、李季明さんは「北京市歌曲創作コンテスト」で優勝と準優勝を三度獲得し、さらに、いつもシリーズ物の大型演芸公演の監督を担当していました。生まれつきの楽天家で、ユーモアがあり、社会や職場での人付き合いも悪くなく、幅広く交際し、家の中はいつも客や友人でいっぱいで、歌声と笑い声が絶えませんでした。

 「天に不測の風雲あり、人に旦夕の禍福あり」(訳注:人の禍福は常に変化しており、天気の変化と同じように予測し難く、災いは意外な時にやってくる)とよく言われますが、李季明さんが順風満帆であった時、巨大な災難がこっそりと李季明さんを襲いました。

 それは1997年春のある朝、李季明さんの右手に砂粒大の水疱ができたのが始まりで、最初は痛くもかゆくもありませんでした。1週間後左手に数個の水疱が現れ、数日後、体中の骨が痛み出し、両手で物を持つのも苦労しました。さらに数日が過ぎると、手足に密集した水泡が現れ、さらに破裂して水液が流れ出ました。李季明さんは漢方の病院に治療を求め、3カ月間煎じ薬を飲みましたが好転しませんでした。両手両足の指の腹が変形して、跳ね上がり始めました。続いて全身の骨が激痛に襲われ、手足を水にぬらすことができず、歩くこともできなくなり、生活も自活できなくなりました。

 李季明さんは恐れ始めました。その頃、李季明さんはすべての大病院を訪ね、東奔西走しました。北京協和、友宜、天擅、海軍、空軍病院の専門の名医を訪ね、治療を求めましたが、診断の結論は何も得られませんでした。

 8月のある日の朝、病院に行こうとした時、李季明さんが最も恐れていたことが起きました。激烈な痛みで立っていられず、友宜病院に入院した後、わずか数日で体重が15キロ減り、しかも、病気の原因がわからないために、大量の抗生物質と痛み止めの注射を受け入れました。李季明さんは本当に痛みが骨までしみるような体験をしました。その時の痛みは刀の先でえぐられているかのようでした。全身上から下までどこも触ることができず、夜は大量の精神安定剤を服用し痛み止めの注射を打っても、しばらくの間、ぼんやりとするだけでした。李季明さんが痛みで全身を痙攣(けいれん)させ、意識が朦朧(もうろう)としているのを友人が見た時、白い粉を使って李季明さんの苦痛を和わらげられないだろうか、とさえ思いました。耐え難い痛みで李季明さんは死のうと思い、酸素吸入の管を外し、刑警隊(訳注:日本の刑事課に相当)の友人に頼んで拳銃を借りましたが、どうしても死ねませんでした。

 その頃、大病院の検査報告では、李季明さんの全身の骨の多くの箇所が壊死していることが示され、病変が速く進行し、危険が目の前に迫っていました。病気の原因を判明するために、病院側は続けて2回も李季明さんの胸骨の影がある部分に、穴をあけて穿刺(せんし・中空の針を体に刺して内部の液体を吸い取ること)手術をしました。3回目は思い切ってノミとハンマーを使って、下の部分の胸骨を取り出し、パイオプシー生検法(訳注:生体から組織片を切り取って調べること)を行いました。

 結果を待つ間、40分間が李季明さんには一世紀の様に長く感じられ、耐えられませんでした。しかし結果はやはり「はっきりした診断が下せない」でした。当時、整骨科のすべての医療関係者が、各所に資料を探しに行くように駆り出され、支援を求めに行きました。さらに積水潭病院の院長と以前、中国に来て脊柱学学術会議に参加したアメリカの専門家にも、病気の原因を診てもらうように頼みました。しかし、アメリカの専門家は最後に一言、「こんな病気は見たことがない」と言いました。

 医者は努力をしましたが、何も結果を得られませんでした。李季明さんは仕方なく75日間入院した後、「多発性骨壊死」という1枚の診断書をもらいました。日増しに湾曲する脊柱により、随時、病理性骨折が発生するのを防止するために、病院が用意したガラス製の胸当てを付けて家に帰りました。さらに病院側の考えによると、漢方、気功、民間の処方などで引き続き治療に努力するように、とのことでした。李季明さんの妻は南京まで行き、3000元を払って外用のいわゆる「万能薬」を買い求めました。このように3カ月辛抱して、お金も尽き、心も疲れ果てましたが、転機は訪れませんでした。一切の生活の些細なこと、例えば食事や服を着ることなど、すべてを家政婦による看護を受け、まるで廃人のようでした。徹底的な絶望の中にいた李季明さんは「生死にかかわる災難」に遭っていることを知りました。その頃、前途のことや事業、両親、妻子のことが気がかりでした。それに初めは李季明さんにとって美しいと感じたすべてが、生死を選択する時の苦痛となってしまいました。その時の状態は本当に生きることも、死ぬこともできず、ただただ辛抱し、一日一日と生きていただけでした。

 この生死の境にいた時、法輪大法が李季明さんを救いました。1998年3月、李季明さんは幸運にも『轉法輪』という本を1冊手にしました。その本を持っただけで、暖かい流れが頭から足まで流れたように感じ、全身がポカポカとして快適になりました。この感覚と本の中で述べられているすべては、李季明さんにとっては本当に奇跡でした。これらのことを考えていた時に、ちょうど隣の姉の一家が大法を修煉していることを知りました。姉たちの紹介により、李季明さんは初めて「胸当て」を付けずに、人の介助なしに4階から下りて、煉功点に行きました。想像を絶することには、それまではソファーによりかかってどんなに頑張っても、15分間しか座れなかった李季明さんが、初日に30分間の抱輪(訳注:法輪を抱える動作)を堅持し、やり続けられた事でした。李季明さんは心の中でとても感動し、九死に一生を得た感覚を持ちました。

 それから、李季明さんは大法の要求に従い、病気に対する執着を放下し、毎日真面目に学法し、煉功し、自分で学ぶことを基礎にした上で、2時間の学法グループに参加しました。学法している時、体の痛みは不思議に消えました。心性がだんだんと向上していくと同時に、体にも不思議な変化が現れました。煉功して1カ月経った時、もともと青白かった顔色が、色白でうっすらと赤みがさし、顔が明るくなり、よく眠れるようになり、食欲も増し、体重も迅速に増し、すぐに病気になる前の状態に回復しました。李季明さんを知っている人は「修煉する前とは、まったく別人のようだ」と言いました。2カ月後に家政婦に来てもらうのを辞退し、自分で家事が出来るまでに回復しました。これらの喜ばしい変化を見て、友人の顔には改めて安堵の笑顔が浮かびました。以前まで教えていたピアノの学生が、再び授業を受け始め、家の中には再び美しいピアノの音が流れました。

 修煉して半年経つうちに、李季明さんは「芸術家」としての風采のシンボルであるロングヘアを切り落とし、たばこなどの悪習を止め、家の中にあるまだ服用していなかった二つの大きな袋に入った漢方薬と、あの「万能薬」を捨てました。李季明さんの体が好転すると、李季明さんが心性を向上させるとそれを助けるかのように妻が怒りはじめた時、最初は李季明さんはそれを悟れず、心性を守れませんでした。しかし常人の理に構わなくると、すべて内に向けて探し、まったく憤慨せずに自己を検討し、本当に修煉者としての「忍」を実行しました。このすべての変化によった結果、母親と妻、それと8歳の娘が皆相次いで修煉に入りました。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/8/26/372943.html)
 
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