動揺と揺るぎない信念
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年9月29日】大法弟子として、師父と大法に対して固い決意や覚悟を持っていなければなりません。これが修煉の基本中の基本であることは前々から知っていました。そして、師父もこのことについて法会で何度も説かれていました。しかし、法をあまり勉強しておらず、実修もしていなかったため、自分は固い決意で修煉していると思ってはいたものの、実際は動揺しやすく、学法と修煉にも影響を及ぼしました。

 ある日、昔、師父が中国で開かれた講座に参加したことのある年配の同修Aさんは、「最近、自分の体が重く感じて、腰もまっすぐにならないの。毎日、時間をかけて発正念をしているけれど、いつも、眠くて目も開けられないでいるの」と言いました。「師父の説法の中で感覚について、どのように説かれたのか覚えていますか?」と尋ねたところ、Aさんは「『人間の感覚はまったく頼りにならない』[1] と師父は説かれているわ」と答えました。「それでは、腰が重いと感じることに対して、どのように対処していますか?」と聞くと、「もちろん、これは幻で、そんなもの認めないわ! でもね、本当に重たいのよ。立ち上がれないくらい重たいの」。「それでも、私たちは師父の言われることを、聞くべきではありませんか?」と再び聞きました。Aさんは「もちろん聞きますとも! 全てこれらの現象は虚像で、けっして認めてはいけないのは分かっているけれど、でもね、やっぱり本当に重いのよ!」と、同じような答えが返ってきました。

 このように、Aさんは前後真逆なことを2回も言いました。その後も、似たような会話が続いたので、私もついしびれを切らして苛立ってしまい、「あなたは何度も師父の言うことを聞くと言っているけれど、結局、自分の感覚に従っているだけだわ! あなた、本当に修煉しているの? 本当に師父を信じているの?」とAさんの言葉を途中で遮り、声も大きくして、諭しました。

 「もちろん、師父を信じているわ! 1時間前に大雨の中、真相の週刊誌を取りに同修のBさんの家まで行ってきたの。大雨の中、よく来たわねとBさんに言われた時、『大法に関することだから、嵐でも来るわよ!』と答えたわ!」と言いました。

 興奮したAさんを見て、年配の方にこのような態度を取ってはいけない、師父の教えを守っていないことに気づいた私は、すぐに謝りました。しかし、内に向けて自分を探すことはせずに、不満を抱いたまま同修の家を出ました。夜、発正念して自分を清める時に、ふと、昼間の出来事を思い出して、いくつかの問題に気づきましたので、下記にまとめて皆さんと交流したいと思います。

 その1、なぜ昼間の出来事に出くわしたのか

 師父は「彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」[2] と説かれました。同修Aさんの反応を普段の自分と照らし合わせてみれば、もしかすると、私も師父と大法に対する信念が固くないのかもしれません。

 師父は「あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです」[3] と説かれました。

 内に向けて自分を探してこそ、次元を高めることができるのです。自分を探していないということは、師父の教えを守っておらず、この問題において、師父と大法への信念が動揺してしまい、同修の状態につられて根本的な正念が揺らいだということなのです。

 師父は「木の枝」[4] について説かれました。どの視点で見ても、完全に正しいとは言いきれません。師父は「正しきは彼 過ちは私」[5] と説かれました。昼間、あれほど威張って同修の「過ち」を指摘していたものの、自分がすでに危険な状況に陥っていることに全く気付かなかったのです。同修の過ちに気づいたのに注意するべきではないと言っているのではありません。正念を持って自分を修め、そして、人心を取り除き、善意を持ってアドバイスをする事が大切です。正念を持って言った方が、相手も聞いてくれるのではないでしょうか。

 その2、なぜ同修のことで、焦りを感じていたのか

 近頃、一部の同修が修煉を疎(おろそ)かにしてきており、彼らもどうしようもないと溜め息をついています。同修Aさんは皆の間で「三つのこと」をしっかりと行っていると高い評判を得ています。しかし、同修たちの心の表れを深く掘り下げてみれば、表面上、皆何も言っていなくても、実際はすでに心の中で同修たちを区別化しており、誰々は正念が強く、相談事に乗ってもらえる。誰々は人心が多く、頼りにならない。誰々は仕事ができないから、何かを任せる時は十分気を付けなければならないなど、と偏見を持って皆さんと接しているのです。「大法弟子は全体である」[6] と師父の説法を口にしていても、実際は狭い心や常人社会のいわゆる世間体と言うもので、同修たちの修煉状態を計っているのではないでしょうか。これも師父と大法を信用していないことではないでしょうか。

 さらに掘り下げてみると、名誉を求める心、他人を頼る心、面倒なことを嫌がる心などが作用しているのです。これらの人心は、常人だった時に強く表れているため、修煉してからは比較的に気を付けていました。その表れは他の執着心ほど鮮明ではないにしても、実際は、まだ完全に取り除かれておらず、何かのきっかけで再び現れてくるのです。

 その3、どのような方法で同修を助けるべきか

 私は同修の忍耐する能力の高低を考慮していませんでした。同修に向上してほしいと思うのは、自分だけではなく、相手自身も同じ気持ちなのです。しかし、私は目の前の情況と同修の態度に捕らわれていました。煉功をすれば、きっと身が軽くなり、血色も良くなり、心も穏やかになるなど、効果がすぐに現れると思っていました。それで時には、真相を伝えている時、相手のしぐさや目線一つで動揺していました。また、「三つのこと」をすれば、常人社会でもそれなりの効果や影響が現れるだろうと思って、執着して仕方がなかったのです。「做して求めざれば 常に道中に居る」[7] と説かれた師父の教えをすっかり忘れていましたし、「修は己にありて、功は師にあり」[1] という法理に対しても、固い信念を持っていませんでした。

 修煉において、最も忌諱(きい・おそれて避けていること)しているのは、自らの感じ方や認識に執着することです。師父はかつて、眼を塞(ふさ)いで水滴の音を聞かせるという法を説かれました。今なら、説かれていることがよく分かります。常人社会で見たもの、聞いたこと、感じたことの全ては、修煉者にとって、眼を塞ぐ布のようなものなのです。師父は弟子たちに法を説き、智慧を授けておられますが、同時に、弟子たちの目を清めておられるのです。修煉する者として、常人社会に捕らわれるか、それとも、師父のご加護と導きにより、「智慧を明らかにして惑わされないようにする」[8] か、選ぶのは修煉者自身なのです。

 修煉していく内に自信を失う同修がいますが、もしかすると、表の現象に惑わされているのかもしれません。師父は「真の煉功者としては、高い次元に立って物事を考えなければならず、常人の考え方で物事を考えてはいけません」[1] 「なぜかと言えば、功の演化する過程がきわめて複雑であるのに対して、人間の感覚はまったく頼りにならないものなので、感覚に頼って修煉するわけにはいきません」[1] と説かれました。

 ですので、この肉身が何を体験し、何を感じ、何と直面しても、それはあくまでも修煉していく過程において、通り過ぎていく景色でしかないのです。圓満成就までの修煉の道は、師父がすでに按排してくださっています。ですから幻や虚像に騙されず、法を正す進展に遅れたり、あるいは、自信を失ったりしないようにしてください。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作 : 『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作 : 『精進要旨』「時間との対話」
 [3] 李洪志師父の著作 : 『精進要旨』「再認識」
 [4] 李洪志師父の経文 : 『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』
 [5] 李洪志師父の詩 : 『洪吟三』「誰が是 誰が非」
 [6] 李洪志師父の詩 : 『洪吟三』「師を助く」
 [7] 李洪志師父の詩 : 『洪吟』「道の中」
 [8] 李洪志師父の著作 : 『精進要旨』「堅 定」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/23/371432.html)
 
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