スマートフォンへの執着を取り除く
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年11月29日】母が法輪大法を修煉し始めたことがきっかけで、1996年、私も修煉の道に入りました。これまで、大法の本を読んだことはあるものの、実修したことがなく、体調が悪くなり、或いは病に罹れば法を勉強し、健康になると、また学ばなくなり、長続きしませんでした。

 真に修煉を始めたのは2017年の初めの頃でした。出産を経て、心身ともに疲れ果てていました。女の子を産んだため、男の子を期待していた夫の機嫌が悪くなり、私自身も強がって、結局は憂鬱になり、家族や夫の両親との仲も悪く、泣きながら毎日を過ごしていました。大法だけが今の私を救うことができると僅かな正念がまだ残っていたので、再び大法の本を手に取りました。毎日『轉法輪』を勉強し、1カ月ほどかけて、40冊以上の師父の説法と経文を一通り勉強すると、漸くして修煉がどういうことか理解できるようになりました。この1カ月の間、心身共に大きな変化が現れました。以前から続いていた頭痛や腰痛、めまいなどがすっかり治り、情緒が安定し、穏やかな気持ちで人と接することができるようになったのです。

 ここで交流したいのは、スマートフォンに対する執着心をどのように取り除いたかのことです。修煉する前、私はスマートフォンに依存していました。食事中でも、トイレの中でも、お風呂に入っている時でも、寝る前も、常にスマートフォンを持っていました。母が言うには、私がスマートフォンを手放したのを見たことがないそうです。毎日、娯楽や、記事、ドラマなどを見ます。妊娠していたころは、毎晩の更新時間0時から、ドラマ、ウィーチャット、QQ、そして、様々な新聞記事など、更新されたもの全て見終えてから寝る準備に入るので、いつも、早朝ごろ寝始めます。あのころは、よくめまいが起き、物忘れも激しく、目の下のクマもひどく、身体も弱って、少し歩くとすぐ息が上がっていました。他人が何を言っても聞く耳を持たず、自分でよくないと分かっていても、どうしてもやめられず、常にスマートフォンに気を取られて、深く嵌(はま)り込み、なかなか抜け出せませんでした。

 修煉していくうちに、スマートフォン依存症から抜け出そうと決意しました。最初はどうしても我慢できず、つい記事やドラマを見てしまいましたが、心を決め、該当のアプリケーションを削除しました。削除した途端、そわそわして、なかなか落ち着かず、ドラマから、ネットショッピングへと注意力が移っていったのです。様々なお店であれこれ見ていたら、時間があっという間に過ぎてしまいました。買い物をしているようで、やはりスマートフォンを弄っているのです。この点に気づき、ネットショッピングのアプリケーションも削除しました。スマートフォンの中のアプリケーションが結構減ったため、今度はウィーチャットの存在が目立ってきて、ウィーチャットを弄るようになりました。今思えば、あの頃の私は修煉者らしいことを全くしていなかったのです。

 ある日、突然、ウィーチャットのモーメントが消え、びっくりした私は、どうしたものかと冷や汗をかいてしまいました。もうこれ以上、ウィーチャットを弄ってはいけないという師父のお告げだと悟った私は、スマートフォンから目を離そうとしました。しかし、これは容易なことではなく、どうしても、手に取って開いてしまうのです。冷静になってよく考えてみると、やはり、これは師父のお告げに間違いないと信じた私は、少しずつスマートフォンから目を離すようにし、そして今は、必要最低限の時しか使わなくなりました。

 今年の夏休みに実家に戻ると、同修でもある母から「すべての大法弟子への注意事項」という文章を渡されました。その文章を見た瞬間、抵抗感や怒りが現れました。私はもうじき卒業して、勤務先の内定もすでにもらっています。皆ウィーチャットを使って様々なことを連絡し合っているし、以前の同級生や友人、知り合いたちからの連絡、子どもに関する連絡、夫の両親からの連絡もあります。夫の両親は元から私が修煉していることに反対しているので、ウィーチャットを削除すると、ますます理解してもらえなくなるのではないか? このような抵抗感を抱いてはいけないと分かっていても、なかなか冷静になれませんでした。母は、この通知を読んだ瞬間、これは常人ときっぱり「切り離す」チャンスだと言いました。1999年、北京へ行くことと同じように、この一歩を踏み出せるかどうかが重要なことなのです。ウィーチャットを削除する時は、まだ惜しいと思っても消した瞬間に、何もかも放下したのだと母が教えてくれました。

 しかし、それでも、私は放下できませんでした。同修と交流しても、相手もウィーチャットを通じて社内連絡をしているので、なかなか削除できないと言っています。仕方なく、2台のスマートフォンを使って、1台はウィーチャット専用、もう1台は普段用にしていると同修が教えてくれましたが、この方法もあまり良くないと同修自身も言っていました。私も同修のようにスマートフォンをもう1台購入しようかと思いましたが、そう思った時、『明慧週刊誌』に「すべての大法弟子への注意事項」が2週連続して掲載されました。それを読んで、作者につられて、漸くウィーチャットやQQを削除する気になりましたが、いざ、削除ボタンを押す寸前になると、再び気が抜けてしまい、結局何もできませんでした。無理強いは良くないと考えた私は、しばらくの間、残したままにしていたのです。

 1カ月の休暇はあっという間に過ぎていきました。もうすぐ会社に出勤しなければならないのに、今、削除しないと、会社に戻れば削除できなくなってしまうと、時間がないことに焦りを感じていました。もう、削除するしか道はないと思い、削除のボタンを押しました。しかし、ウィーチャットを削除して、自分が修煉者であることがばれたらどうしよう?  とボタンを押しながらも常人の念が溢れ出し、結局、削除しても心が全く楽になれず、却って様々なことを心配し始めたのです。そして、終いには師父と大法を疑う念まで出てきていました! 休暇の最後の日、私は師父の写真の前で、「邪な道に走りたくないのです。師父、私を助けてください」と大泣きしながら、発正念をしました。その晩、母と共に『轉法輪』の『第九講』を勉強しました。法を勉強していても、頭の中が混乱していて、心も静まりません。しかし、法を読んでいくうちに「しかし常人の次元を超え、少し高い次元に立って見ると、常人が認識しているこのような理がほとんど間違っていることに気づきます」[1]という説法が印象深く頭の中に残りました。これまで何度も法を勉強して、同修とも交流してきましたが、あの瞬間ほどすっきりしたことはありませんでした。

 常人は常人でしかないのです。常人の理について師父は「ほとんど間違っている」[1]と説かれました。また、「常人はこれを不可思議だと思うでしょうが、常人は煉功者を理解することができないもので、理解のしようがありません。思想の境地があまりにも違いすぎ、次元があまりにもかけ離れているのです」[1]とも説かれました。ウィーチャットを削除することが理解できないと思う常人は、まさに「思想の境地があまりにも違いすぎ、次元があまりにもかけ離れている」[1]のです。神が何かを行なう時、その行動を常人に理解してもらう必要があるでしょうか。ここまで思うと、すぐに、「どんなに話してあげても信じない人がいて、やはり常人の中にいる方が何かにつけて実質的だと言います。固有の観念を抱いて放そうとしないので、信じることができないのです」[1]という説法が飛び込んできました。

 以前の大法に対する動揺は、常人の固有観念を放下していないことが原因であることに気づきました。必ず放下するという念を決めると、「この理は、たちどころに認識する人もいれば、徐々に悟り、認識する人もいます。どう悟ってもいいのではないでしょうか? いっぺんに認識できれば、それに越したことはありませんが、徐々に悟ってもかまいません。どちらも悟ったことになるのではないでしょうか? どちらも悟りですから、どちらも悪くありません」[1] という師父の説法が目に入りました。以前の私は本当に情けないと思います。母や交流文章を書いた同修はすぐに「注意事項」の含意を悟ったのに、私は全く気付かないどころか、危うく邪な道に走るところでした。師父の「どちらも悟りですから、どちらも悪くありません」[1]に慰められた私は涙を流しました。そして、最後に、師父は「本当の劫難に直面した時、あるいは関門を乗り越える時に、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと『柳暗花明又一村』というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません!」[1]と説かれました。師父に励まされて、私も「必ずできる!」と心の中で自分に言い聞かせ、決心を固めました。

 師父の要求は正しいことであり、私たちが心を固めているかどうかを試されているのです。ウィーチャットを削除することは絶対に正しいことです。これは他の惑星から伝わってきた技術であり、修煉者がそれを使用すると、却ってそれにエネルギーを注入することになります。師父は「寺院や深山で修煉する場合は、完全に常人の社会と断絶させ、強制的に常人の心を放棄させ、物質的利益が得られない状況に身を投じさせて、失わせるのです。それに対し、常人の中で修煉する人には、このような方法をとらず、常人の生活環境のまっただ中にいながら、それらのことに淡々としていられるよう求めます。言うまでもなく、これは大変難しいことですが、われわれの法門の最も重要なことでもあります」[1]と説かれました。

 この説法を読んで、常人社会の中で修煉する大法弟子は、本来なら自らウィーチャットに対する執着心を捨て、削除しなければならないと悟りました。しかし、多くの人はウィーチャットなどのアプリケーションに心を引かれ、なかなか放下できなくなっているのです。私たちがしっかりしていれば、明慧編集部も「強制的に常人の心を放棄させ」[1] と、このように書き出すこともないでしょう。

 実家を出る前日に私を救ってくださった師父に感謝いたします。事実上、ウィーチャットを削除してから、常人である夫と両親は以前と変わり、却って大法への反感が弱まりました。このことを通じて、大法を理解する重要性を実感しました。常人の観念を抱いたままでは、却って簡単なことを難しくしてしまうのです。常人の執着を放下すれば、複雑な問題も簡単に見えてくるでしょう。未だスマートフォンやウィーチャットに執着している大法弟子たちも、一刻も早くそれを削除し、師父の本当の弟子になりましょう!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/9/2/373201.html)
 
関連文章