文/陜西省の大法弟子
【明慧日本2019年1月4日】最近、私は歓喜心が見つかりました。ここで、自分の歓喜心がどのように形成したのか、その原因は何だったのかなどを皆さんと交流したいと思います。
経緯はこうなっています。私は同修に指摘されてから初めて気づいたことですが、つまり、私は人と話をする時は、話しぶりや態度が「善」ではないのです。実は、私は同修に優しく対応していないことに気づいた時、自分も辛かったのです。確かに、同修の言う通りです。例えば、誰かが私の意見と違えば、その場ですぐ相手のことを嘲笑したり、皮肉を言ったりしていました。自分は上から目線で同修のことを見下していたことがよくありました。多くの場合、会話は気まずいままに終わってしまいました。私は内に向かって探すどころか、恨む心が生じ、隔たりにもなりました。
私は自分自身の執着心を探そうと試みました。例えば、闘争心や顕示心、嫉妬心や名誉心など、人より優れていると思う心や人に言われたくない心が見つかりました。これらの執着心を取り除こうと努力しましたが、しかし、思い通りになりませんでした。しばらくしたら、また元の木阿弥になります。この状態を繰り返している中で、私は根本的な執着を掴んでおらず、どうしようもないまま1年が過ぎました。
先日街を歩いていた時突然、師父の説法を思い出しました。師父は「昔、ある人が一生懸命修煉して、やっと羅漢になれるところまで成就しました。もうすぐ正果を得て、羅漢になれるのだと思うと、これを喜ばずにいられるでしょうか? やっと三界から抜けられるのです! しかし、喜ぶこともまた執着心で、歓喜心なのです。羅漢は無為であるべきで、心が動じてはいけません。結局その人は堕ちてしまい、それまでの修煉が無駄になってしまいました」[1]と説かれました。その時、私はびっくりしました。歓喜心ってこんなに危ないものなのでしょうか。修煉者に圓満させないことも出来ます。もしかしたら、私も歓喜心があるではないかと思いました。
それから、私は自分自身に存在する歓喜心が見つかるようになりました。よくよく考えてみたら、同修に対して良くない態度を取るのは、自分が同修より優れているという認識を持ち、この歓喜心から生じていると考えられます。
先ず自分をおだてることによって歓喜心が生じます。例えば、私が書いた文章が明慧ネットに発表された時、功能が出た時、何かが見えた時、あるいは自分は人より良くできたと思った時、心の中にいつもある声が聞こえます。「あなたはよく出来ています!」。そうすると、たちまちこの歓喜心が湧いてきて、天狗になってしまいます。人は苦痛に対しては用心しますが、嬉しいことに対しては麻痺しがちです。
次に、同修からおだてられることによって歓喜心が生じます。集団学法のとき、私は自分が見た他の空間のことを同修にぺらぺらと話し、みんな興味津々に聞いてくれたとき、この存在感が私をおだてて、自分の意思を強制的に同修に押し付けることがよくありました。同修が私の認識を納得してくれたとき、私はもっと多くの同修を助けなきゃと思いました。その際に、自分は同修より良く出来ているなどと考えているうちに、実は自分の次元がどんどん落ちて、低くなってしまいました。
師父は「皆さんは皆一つの粒子です。私から見れば、他の人より優れている人は一人もいません。なぜならば、皆さんは私が同時に掬い上げたからです。(拍手) この方面において能力のある人がおり、あの方面において能力のある人がいますが、これでうぬぼれてはいけません。私にこれほどの腕があるなど云々しますが、それは法があなたに与えた能力です! あなたはそれほどの能力に到達しなければならないのです。法を正すことはあなたの智慧がそこまで達することを必要としているため、自分がいかに有能かと思わないでください」[2]とおっしゃいました。
なるほど、師父はとっくにこの法を説かれていました。しかし、私はこの歓喜心の中で、修煉の方向を完全に見失いました。私は大法の中の一粒子に過ぎず、私のすべては大法からくださったものです。そして、師父は地獄の中から私をすくい上げられました。それなのに、これらの功績が全部自分のものだと思うなんて、なんと愚かなことでしょうか! こんなにも愚かで、卑怯で、悪い心を持っているようでは、どうして新しい宇宙に同化することが出来るでしょうか!! どうすれば、他人のことを先に考える人になれるでしょうか。
私はやっと同修に対して優しくない原因が分かりました。そこで、多くのこれらの良くない歓喜心を全部掘り出して取り除き、やっと私は心が平静になりました。私にも同修に及ばないところが数々あります。これからは心を入れ替えて、同修の多くの長所を思い出し、それらを認めたとき、今まで体験したことない穏やかさや和やかさが身体全身に流れ出てきました。これはあの大きな「善」の暖かさだと私は思いました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』