文/海外の大法弟子
【明慧日本2019年3月17日】『轉法輪』を読むと、表面上はとても簡単に見え、字が読める人なら誰でも読むことが出来ます。しかし、その裏に隠されている高い次元の法理は、それほど容易に知ることはできません。それではいかに良く学法するのでしょうか? まず私は初めに「恭(うやうや)しい気持ち」と「清いこころ」で、自分を「空」の状態に置くようにして、何も考えず、「量」と「スピード」を求めず、自然に還ることだと思います。そこで私の体験を書き出してみましたが、あくまで私個人の見解であり、まだまだ自分が悟っていない奥深いものがたくさんあると思います。
一、科学の観念を破り、法の内含(ないがん)を会得する
多くの同修と同じで、科学の観念が私の頭の中で大きな部分を占めています。学法するときには、法をもって科学を測るのではなく、自然科学の考え方で法を理解しようとします。頭の中に出来上がった科学の「軌道」があるかのように、注意しなければその軌道に乗ってしまい、なかなかそれを突き破ることができません。
例として、『轉法輪』の第一講にこのように説かれています。「例えて言えば、瓶びんの中に汚い物を一杯入れて、蓋をしっかり閉めてから、水に投げ入れると、底まで沈んでしまいます。中の汚い物を出せば出した分だけ瓶が浮き上がってきます。全部出せば、完全に浮き上がってきます」[1] 私はここの内容と物理学の認識とは違うと思いました。物理学では水中の物体が三つの状態「漂う状態」、「浮遊した状態」と「沈む状態」があると教わりました。物体の密度と水の密度が同じ場合には、ある高さまで浮くことができると認識しています。
長い間、この種の問いに戸惑いを感じていましたが、その後、このように悟りました。まずは、師父が私たちに物理を教えられているのではなく、法を説かれているのです。二つ目は、人間界の水は同じ密度で、同じものと思っていましたが、大法においては異なる次元に異なる現れ方があり、修煉者はある次元にまで浄化されれば、どこまででも行けるのです。三つ目は、師父が物理学の例を挙げて、私たちに科学の観念を変えるように説いておられるのです。
言い換えれば、人間界のすべては宇宙の無数の層の中の一層、あるいは一つの特例と見なし、師父が「光年」で時間を表されることも同じく、時間と空間は相互に転換できることを、現代の科学もこの点について認識しています。これだけではなく、師父の説法の中で、よく「ある人たちの認識では」とか、「現代医学の発見によれば」とか、「佛教の認識では」とか、「修煉界の認識では」などの言い方がありますが、私の理解では、これらの「認識」が必ずしも正しいものだと限らず、あるいは、限界があるものであり、ひいては、ダーウィンの進化論のように間違っているのかもしれません。
師父はこれらの名詞概念や学説を使われて宇宙の大法を説かれ、弟子たちにその裏にある法理を教えられているに過ぎません。もし最初から高く説かれたなら、法を聞く人が理解し難いだけでなく、基本的な観念まで乱されることがあるかもしれません。実は、私たちが人々に大法の真相を伝える時にも、このように言うべきではないでしょうか? 例えば、人から「現在、中国で起きている腐敗撲滅運動についてどう思いますか?」と聞かれた場合、私たちは人々の正義と良識を守るべきだと思いなす。また敬虔なキリスト教徒に対して、私たちはその神を信じる正念を肯定するとともに、次元の高い内容を言わないことが大切だと思います。
学法に関しても、肝心なことは法の内包を悟ることだと思います。これができるためには、まず私たちを左右している様々な観念を打ち破らなければなりません。師父はこのように説かれました。「ある種の観念が形成されると、人の一生を支配し、その人の考え、その人の喜怒哀楽を左右します」[2] 学法するときの「ここがいい」、「ここがよくない」という感じも、自分の観念によるものかもしれません。
二、なぜ心のバランスが取れないのでしょうか?
ある時、私は『轉法輪』の「嫉妬心」を読むとき、突然、師父の「心のバランスが取れない」というお言葉が何度も書かれていることに気づきました。数えてみると、7箇所もありました。私はそれを一つ一つ自分に照らし合わせてみると、多かれ少なかれ自分にも同じような問題があり、時にはかなり強い嫉妬心が現れてきます。自分の頑固な観念に左右される時には、どちらが真の自分であるか見分けるのが難しいのです。
師父は、「常人にはこの理が分かりませんので、自分にふさわしいことをやらせて貰うべきだといつも思っています。ですからその人の人生は争いの繰り返しであり、心がずたずたに傷つけられ、とても辛い思いをし、疲れていると感じ、心はいつも平静でいられません」[1] と説かれました。神韻のプロジェクトに参加している時にも、私はいつも誰々がこれをやるべきだ、それをやるべきだとか、このことはこうやればもっと良くなる、ああやればもっと適合するとか、どうして私にこれを任せないのだろうか、いつもどうしてこれをやらせるのか、と思いました。自分の考え方に合わない時、心のバランスが崩れるために消極的な態度で行い、協力せずいい加減にやることさえありました。今私が一つ分かったことは、このような考え方の根源はほとんど「嫉妬心」によるものですが、ただ「神韻のために」という仮面を被っているために、そう簡単には見分けがつきませんでした。
実は、これだけではなく、私は心のバランスが取れなくなったり、不愉快になったりする時も、ほとんど「嫉妬心」による現れだと分かってきました。先日、私は中華街で中国共産党の関連組織から脱退する「三退」を呼びかけている時、ある中年の方に声をかけ、法輪功の真相が書かれたチラシを渡しました。否定的な態度ではないその方に、続けて話そうとしている時に、そばにいたもう1人の同修が入って来て話すことになりました。もちろん、誰から真相を聞いても「三退」を勧めるにしても、本当の所は師父がなさっていることだとはっきり分かっていましたが、その時の私は心に多少の不愉快さを感じました。それこそ、「嫉妬心」の現れだと思います。
三、「人の為」という基点から考える
『轉法輪』の第6講ではこのように説かれています。「『他の宗教の本や気功の本を読んでいいでしょうか?』と尋ねる人がいます。宗教の本、特に佛教の本は、いずれも人々にいかにして心性を修煉するかを教えるものです。われわれも佛家ですから、問題はないはずです。しかし一つだけ、多くの経典は、翻訳する際に、すでに一部の内容に誤りがありました。それに加えて、多くの経典の解釈は異なった次元で行なわれ、勝手な定義を与えられています。それこそ法を乱すことです」[1]
ある日、学法している時にふとこのように思いました。もし自分が人に「他の宗教の本や気功の本を読んでいいでしょうか?」と聞かれると、私はどう答えるのでしょうか? おそらく「当然、読まない方がいいです」と答えます。それに対して、師父が答えられたのは「人の為」という立場から、質問をした人が理解しやすく、受け入れやすい角度から、丁寧に道理を語られていると気づきました。
往々にして、私は人々に真相を伝える時や同修たちと交流する時、それに家族と接する時に、どうして辛抱強く、和やかになれないのでしょうか? それは基点が正しくないからだと分かりました。実は、何かを言う時や何かを行う時に、「人の為」にという角度からすれば、全ての事柄が良くできます。
また、ある時特に家族と話す時、私はいつも「あなたの為になる」ということだけに満足し、話す態度や具体的なやり方にあまり注意を払わなかったり、あるいは、本当に完全には出来なかったと思います。もちろん、どこまで出来るのかは心性の境界の表れですが、その過程の中で、絶えず自分の人心を見つけ出し、絶えず相手に合う接し方を模索することこそ、自分を修めていることになるでしょう。
四、その他について
他にも例を挙げてみます。数年前、私の地域で初めて神韻を開催する時、全体の会議で、ある年配の同修と責任者が言い争ってしまいました。私から見ると年配の同修の方が理にかなっていると思い、彼の立場になって意見を述べました。翌日、ある他の同修から、私の昨日の発言に問題があると指摘されました。私ははじめて真剣に考えました。どこが間違ったのでしょうか?
表面から見ると私は自分を守るためではなく、人の為、その年配者の方が筋も通っていると思いました。後になって分かってきたことですが、私の「人の為」は範囲が狭すぎて全体の立場から、さらには大法の基準から考えなければならなかったのです。このように考えることで、私は自分の間違ったところを見つけ出しました。もう数年前のことでしたが、『轉法輪』を学んでこの理を悟った時に、また、この出来事を思い出しました。これは大と小の分別だと思います。
もう一つ、つまり「大きなところに着眼すること」と「細かいことに配慮すること」の問題です。『轉法輪』の中で、師父は弟子たちに正々堂々と大きなところに着眼して、修煉すべきだと教えられましたが、師父はまた我々に「大志を懐きながら細かいことに配慮し」[3] とも語られています。これらは矛盾ではないでしょうか? また、病業について、師父は「一部の学習者は病業の関を乗り越えられません。重大な過ちばかり考えないでください。大きな過ちがなく、法に対して確固たる信念を持っているとあなたは思っています。しかし、あなたはそれらの小さいことを軽視しないでください。邪悪は隙に乗じてくるのです。多くの学習者は小さい過ちのせいで命まで失いました。本当に非常に小さいことが原因だったのです」[4]
この問題について私は戸惑いました。私の観念では表面上では矛盾しているように見えましたが、後になってそうでもないと分かってきました。もちろん、今の私はまだ二つのことしか悟っていません。一つは対象が違うこと、もう一つは極端な方法を取らないことだと思います。言い換えれば、つまり人に対しては大きなところを見て、些細な事にこだわらない。一方、自分に対しては厳しく要求して、小さな執着であっても、それは大きなことなのです。
また、極端に走らないことについては、私もよく把握できません。ですから、大きなところに着眼して、正々堂々と段々と修煉していくしかありませんが、自分に対しては厳しく律するべきです。
ある日学法している時、突然、師父は私たちに悟性を高める方法を指導してくださった、と気づきました。それは「不思議」な事に遇ったら、「深く考える」ことです。では、「深く」の意味は何だろうか? 私の理解では一つは「時間」の面から、例えば歴史上で出来た借りのこと、もう一つは「空間」の面から、例えば高層空間による魔の妨害など、私はこのように考えると気持ちが明るくなり、一瞬にして分かってきたように感じました。特に今までこれらの原因に隠された執着を見つけ出した時、私は本当に修煉の素晴らしさを得心しました。
真相を伝え衆生を済度する過程で、同修と意見が合わなかった時や、日常生活の中で家族とうまくいかなかった時、多くの「不思議」がありましたが、私はこれらの「不思議」を簡単に聞き流しただけで、このことについて「深く」考えませんでした。この間、妻が食事の支度をしている時、私は箸を取りに台所に行きましたが、ガスコンロの横に使った後の2膳の箸が置いてあるのを見て、何気なく食器洗い用のボールに入れました。妻が使った箸を持って来るのではないかと思い、頭の中で、「水の中に入れてしまえば、洗いたくなくても洗うしかない」という一念が浮かび上がったのです。
そのあと間もなく、妻は使った箸を探し始めました。私がボールに入れたと言うと、妻はカッとなり、しかもかなり怒りました。なぜこんな些細なことに怒るのかと不思議に思いながらも、謝りました。もちろん心からではなく、いい加減な謝り方でした。すると妻はさらにかんしゃくを起こしました。私は心性を守れず妻と喧嘩になり、喉がかれ、声がかすれてきました。それを見て妻も静かになり、たぶん妻も反省したのでしょう。
その後、冷静になって考えてみると、なぜ分からなかったのでしょうか? その「不思議」こそ、汚いものを嫌う心や闘争心などを取り除く、いいチャンスではないでしょうか? 私は自分のやりたくないことを、強制的に妻にやらせるこの心は、すべて悪念であり、「人の為」の法理を全く思い出さなかったのです。
学法を通じて私が一つ分かったことは、師父が私達にその「不思議」の原因を「深く」考えさせ、潜んでいる執着心を見つけ出してこれらを取り除き、それにより、私達の心性を高めさせているのです。なぜなら、「業力」と「執着心」は互いに補完し合うもので、「執着心」が取り除かれて、はじめて師父は私達の「業力」を消去してくださるからです。業力を消去する過程で、私達の受ける苦しみが象徴的にわずかなものにすぎない、言い換えれば、私達の悟性を高めるためでもあります。
ここまで書き、たくさんの感想があります。修煉の心得を書くこと自体が修煉ですし、文書を修正する過程も修煉です。ある同修が「口を修める」体験談で、口と舌が潰瘍になったことがあり、言うべきではないこと言ってしまったか、あるいは、言うべきことを言わなかったことが原因だったかもしれないと言いました。文書を書くのも同じことではないかと思います。
注:
[1] 李洪志先生の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志先生の著作:李洪志师父著作:『轉法輪「卷二」』「佛性」
[3] 李洪志先生の著作:『精進要旨』「聖者」
[4] 李洪志先生の経文:李洪志师父著作:『二〇一五年米国西部法会での説法』