文/武漢市の大法弟子
【明慧日本2019年3月22日】「人間は一体何を恐れるのか?」と、私はずっと考えていました。修煉してからも、「人間はなぜ恐れるのか? 何を恐れているのか? その恐れはどこから来ているのか?」と常に自問していました。
既に手にした富、名声、名誉、他人からの肯定的な評価や賛辞等々を失うことを恐れているでしょう。これらは表れに過ぎず、実質は自分の利益がなくなることや、各方面の利益が損失を被ることを恐れていると思います。人間は「私心」があるため恐れてしまい、その失いたくない物のすべてが人間の様々な「虚栄心」を満足させてくれるからです。
遅く修煉を始めた私は自分が悟性が悪くて、根基も浅い人の部類に属しているとずっと思っていました。この心のせいで、一定期間が経過する度に私は悲しく思い、意気消沈の状態に陥り、苦悩と後悔の気持ちが何日も続きます。それが良くないと知っている私は問題の根源を探り、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」[1] を思い出しました。すでに法を得ているので、早い遅いなどを後悔しても意味がありますか? 逆に、法をまだ得ていないさらに多くの生命と比べて、私はどれほど幸運なのでしょう!
自分が遅く法を得たことを悔やむ気持ちも、「私心」によるものだと分かりました! 師父はすでにおっしゃっています。「入門した者は早い遅いにかかわらず、全員弟子です」[2] 法を得たのが遅いと悲しむのは、大法を正しく認識できず、師父のお話を信じることができず、道を求める心の中に「私心」がまだ隠されているからです。この点が分かってから、私は遅く修煉し始めたことで悲しんだりしなくなりました。
自我に執着せず、真相を伝え始める
人間は多くの物事を恐れ、往々にしてこの恐れる観念に従って物事を行なうかどうかを決め、そしてそれに慣れています。修煉し始めた以上、この観念を改めなければなりません。
現実社会では、人間の「利己心」がすでに言葉にならないほど無茶な程度に達していると気付いた私は、普段、人との接触をあまり好みません。少なくとも、私は他人を傷つけたくなく、傷つけられたくもありません。私にとって、これが真相を伝えるときの大きな難関となりました。
私は臆病で口下手な人ではありません。しかし、いざ真相を伝える場面となると、口を閉じてしまいます。毎回、真相を伝えに出かけるときは出陣しに行くような焦りを感じ、うまく話せず、甚だしきに至っては何から言えばよいか全くわかりませんでした。
帰って来て内に向けて探してみると、やはり「私心」が原因だと考えました。私はこう自問してみました。「私は死を恐れているの? 黒巣にぶち込まれて、迫害されるのを恐れているの?」。真面目に考えた末、私は師父の説法を思い出しました。「頭が落ちても身体はまだ座禅している」[3] 私はすでに法を得ています。今生で法を得るのがすでに容易くない上、度重なる輪廻転生の中で、今日のために私は何回命を捧げたのかも分かりません。それなのに、なぜ世人を前にして、正々堂々と彼らに真相を伝えることができないでしょうか? 私は自分が「虚栄心」と「面子」を重んじる心に阻まれていることに気づき、他人に理解されず、「若者なのに俗世間から離れようとし、追求がなく、向上心もない」と言われるのを恐れていました。実は、これは常人の観点から修煉をみているのであって、恐れているのは人間の名声を失うことを恐れているのであり、やはり「私心」が邪魔していました。私がこの観念を改めた後、真相伝えにも変化が現われました。
ある日、何も考えずに真相を伝えに出かけました。しかし、外に出てから、口を開いて真相を伝えることの難しさに気づきました。私は発正念したり、法を暗唱したりして、それでも往来する世人を眺めるばかりで口を開くことができず、焦るあまり涙まで浮かべました。その時、不思議な事が起きました。あるおばあさんが買い物を終えて、スーパーマーケットから出てきました。彼女と目を合わせながら、私は彼女が師父が按排して下さった縁のある人だと思いました。思った通り、おばあさんは私に声を掛けながら隣の長椅子に腰かけて、まるで私とここで会う約束をしていたかのようでした。
私は明るく彼女と軽い会話から始め、話題も気の向くままで自然でした。間もなく、話題は法輪功に移りました。おばあさんは資料を受け取ったことがあって、家に隠しておいて見る勇気がないと言いました。私は笑って「自分の家でも見る勇気がないのですか? たかが何冊かの本ですよ。それに、これは貴重な資料です。書かれているのは中国では封鎖されている真実の情報で、私たちの身の回りの出来事ですよ」と言いました。おばあさんも笑って「確かにそうね。自分の家でも見る勇気がないとはおかしいわね。帰ってからじっくり読んでみます」と言ってくれました。
私が中国共産党政権の腐敗堕落や、これまでの幾多の運動によって8千万人の罪なき同胞が命を落としたと言うと、おばあさんは自分の想像を超えた事実に驚きの表情を見せました。その後、おばあさんは悩みを打ち明けてくれました。私は真心から彼女を諭し、この機に彼女に三退を勧めようとはまったく思っていませんでしたが、最後には彼女自身が三退しただけでなく、連れ合いと娘の三退もしてほしいと頼んできました。私は三退に関しては、本人が三退の意義がはっきり分かった上で、自ら選択しなければならないことを彼女に伝えました。家族も三退したければ、以前に受け取った資料に載っている三退の方法に従って行なえば良いと教えました。最後に、私は「帰宅されてから、早くご家族と一緒に資料を見て、くれぐれも早めに自分のために素晴らしい未来を選択してください」と話しました。私たちの会話は自然で滑らかで、私の話す番になると、考える必要もなく言葉がスムーズに出てきました。しかも、どの言葉もおばあさんの心に沁み込み、彼女が普段なかなか口にしない話題も話してくれました。別れるとき、おばあさんは心から感謝の意を示し、表情が重々しく厳かでした。私はそれが救われた生命の背後にいる計り知れないほどの衆生の感恩だと感じ取りました。衆生を救いたい真心と願望がある私に、師父は絶えず知恵を下さったから、このような結果が生まれたのです。
帰宅後、私は今回どのようにしてスムーズで、はっきりと真相を伝えることができたのかを考えてみました。会話を交わす中で、私はいかなる「自我への執着」も持たず、必ず何かを成し遂げようとも考えたことがなく、ただ純粋な心で行なったからだと思いました。
また、自分には「慈悲心」が出てこないのは「自我への執着」が強すぎて、「私心」が強すぎたからだと思いました。「私心」を取り除いた分、自身の「心の容量」が大きくなり、「慈悲心」も自然に生まれ、衆生を見ると彼らには未来がなく本当に苦しい境遇に置かれていると感じ、思わず生命に対する哀れむ気持ちが生じ、衆生に真相を伝える意義も分かるようになりました。
「党文化」の根本は私心である
以前、私は「潔癖症」があって、修煉してからはそれも度が過ぎれば執着だと分かっていながら、中々取り除くことができませんでした。外ではまだましですが、家ではまったく自分を抑えることができず、夫のやったことが私の「衛生基準」に達していなければ、彼を批判するか、彼のやり方が徹底していないと愚痴を言い、怒りを露(あら)わにするのが日常茶飯事でした。
その後、私は自分の間違いに気づき、それが私の身における「党文化」の表れで、きちんと整理しなけばならないと考えました。内に向けて探す過程で、それも「私心」に繋がっていると分かりました。なぜなら、私は自分の基準を優先し、自分の基準で他人を評価し、要求まで押し付け、「心の容量」が小さいだけでなく、それがまさに「私心」によるものだからです! これでは大法修煉者と言えるでしょうか?
最初の頃、私の批判を受けて夫は真っ向から言い返してきましたが、私の内心の変化に伴って、彼は沈黙を保つように変わり、最後に、私がうまく自己制御できずに何かを言い出して途中で黙り込んだ場合、夫は私がまた関を乗り越えていると分かり、笑顔を見せてくれました。そのとき、私は「内を修めて外を安定させる」[4] を少し理解できた気がして、外に求めず、他人に求めず、無条件に自分を修めれば外部の一切は変わっていくことを体得しました。時には街を歩き、世人を見ていて、私は「会ず当に絶頂を凌ぎ、一覧して衆山を小とすべし」の感慨を覚え、世間の紛争や損得などは、本当に取るに足りないものだと思いました。
利己的な観念を取り除き、心の容量が拡大した
絶えずそれらの古くて利己的な人心を取り除いていくと、私の思想境界に大きな変化が現われ、以前好きではなかった人や物事には平然と向き合い、付き合うことができるようになりました。
ある日、バス停でバスを待ちながら、私は杖をついてヨロヨロと遠くから歩いてくるおじいさんを眺めて、「真相を聞きに来ているのでは?」と考えました。おじいさんは本当に私を眺めながらゆっくりと歩いてきて、私に微笑んで頷いてから振り向き、近くのゴミ箱をあさり始めました。以前の私なら、恐らく彼と話す考えを諦めたでしょう。しかし今回、歳を取っていて動きも機敏ではなく、汚い衣服を身に纏ってゴミ箱を漁(あさ)るおじいさんの姿を見て、「彼の子供たちは面倒を見てくれているのだろうか?」と思って涙が出てきました。今、彼に真相を伝えなければ、これまで待ってきた彼の一生涯が無駄になってしまうと考えました。その時、おじいさんをよく見かけてきた数人が私のそばに立って、彼を皮肉っていましたが、おじいさんは全然気にしていませんでした。私はおじいさんに近づいて話しかけました。嘲笑っていた人達は訝(いぶかシイ・疑わしい)しい表情を見せて、私に「彼は聞こえないから、言っても無駄だ」と言いました。
言われた通り、おじいさんはしばらくしてから「私は聞こえない。もう90歳を過ぎている。子供たちと同じビルに住んでいるが、彼らは下の階に住み、私を最上階に住ませている。人間はあまり長生きしない方がいいよ。早く向こうに逝くのが得策かもしれないな」と言うので、私はこう言いました。「そのように考えないで下さい。今日まで長生きされたのは意義がありますよ。誠心誠意に『法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!』と唱えれば福報が得られますよ」。しかし、おじいさんは自分の耳が遠くて聞こえないと言い、私は大声で念じて聞かせることにしました。私が念じる度に、おじいさんは「本当に響きが良くて美しい! 素晴らしい! この話は本当に耳に入りやすい!」と繰り返し言ってくれました。しばらくしてから夫も来て、大声で彼に「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」と念じてあげました。最後には、彼を嘲笑っていた人達がいなくなり、私たちはまたおじいさんと話しましたが、彼は「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」以外には、本当に何も聞こえないようでした。私は生命が救われることの難しさに感嘆しました!
事後、私は修煉の過程でそれらの良くない心、特に「利己的な人心」を取り除いてから、やっと以前の観念から解放され、やっと生命が平等であることの真の意味を理解できたと思いました。
結び
数年来の修煉を振り返り、当初は人間としての悩みを解決するために、修煉し始めた私でしたが、今はますます修煉の使命感を体得し、機械的に真相を伝えていた私は現在は、悲しみや苦しみに悩まされている生命を心から助けようとしています。傷つけられないように人の群れから遠く離れていた私は、今は自分の損得を考えず、人々の言行に淡々と向き合い、他人の困難を思いやって関心を寄せ、助けてあげようとするようになりました。この過程は本当に少しずつの積み重ねでした。時には、自分の言動が遙かに基準に及ばない、と自分自身でさえ諦め半分に思いましたが、師父は常に目をかけて下さり、絶え間なく励まして下さいました。
今わかった事は、修煉過程の各種の「人心」の表れはみな、「私」という旧い宇宙体系を貫く物質によるものだということです。各次元において、私が絶えず「各種の人心」を取り除いた後にみえたものは「私心」で、すべての良くない心が依存しているのは「私心」です。各次元において私が「私心」を少しずつ取り除く度に、自身の「心の容量」の拡大と次元の昇華を体得し、師父が『轉法輪』の中でおっしゃっている「物質と精神は同一のものです」[2] を実証しました。「心の容量」が拡大すると、世間の人や物事に対処する私の心態が、以前とはまったく異なりました。私はこれからもずっと堅実に、大法の修煉の道のりをしっかりっと歩んでいきたいと思います!!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法の中に溶け込む」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「白日の下にさらけ出す」
[4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「内を修めて外を安定させる」