協力したくない心を取り除く
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文/米国東部の大法弟子

 【明慧日本2019年4月7日】師父は度々説法の中で、大法弟子が互いに協力し合うべき法理を説かれています。しかし、実際の修煉環境の中で何の愚痴もこぼさず、たとえ相手に傷つけられ、誤解され、排斥されても冷静さを保ちながら真心から相手に合わせていき、自分の特技を活かして相手のためになるよう無条件に協力していくのは、本当に容易な事ではありません。

 常人の間で「勝てなくても避けて通れないことはない」という流行り言葉があります。同修間でいざこざが長引き、あるいは某プロジェクトで無視されたり、非難された後、多くの同修は耐えるより逃避したり、回避したり、ごまかしたりすることを選び、裏で事をぶっ壊すことをしなくても消極的に協力し、傍観の態度をとっています。最近、多くの修煉者はこの消極的な協力する心理に制約されて、次元がなかなか向上せず、苦悩しながらも突破できず、知らず知らずのうちに「公平」を求め、心が落ち着きません。個人的には、法理に沿って協力し合うことを認識できるかどうかは、全体にとって急遽(きゅうきょ)突破すべき関になっていると感じています。

 協力を渋る同修たちには「共通のわだかまり」があります。それは、とても不公平な待遇を受けた自分に、相手が配慮してくれるどころか、自分がさらに自己犠牲を払わされ、相手に協力してプロジェクトを成功させなければならず、しかも、功労も称賛も相手又は協調人に全部独り占めされて、彼らの威徳がさらに大きくなって、自分には何も残らないと思うところにあります。これは正しい修煉の理なのでしょうか? どうしても「心のしこり」が解けない人がいます。

 ここで個人の認識と理解を述べてみたいと思います。事の成功如何は、それに関わった修煉者が修煉したかどうかとはまったく別のことです。良く修めていれば、事はもっと成功裏に進みます。しかし、事は成功したものの、それに関わった修煉者が実は自分を修めていないケースもよくあります。一例ですが、ある地区は各種の正法のプロジェクトがうまく行なわれていて、周辺からも称賛され、協調人も自分の役割を果たしていました。では、実際、その協調人は良く修めていたでしょうか? その後、協調人にはさまざまな魔難や重い病業が現れ、個人修煉の問題も明るみに出てきた時、同修たちはやっとあることに気づきました。その地区のプロジェクトがうまく展開されてきたのは、同修たちがトラブルを前にして互いに協力し合い、自我を放下し向上した結果であるだけに、協調にあたっていた協調人自身は目の前の輝かしい成果に自惚れ、それを自分が修煉し向上した物証と見なし、取り除くべき多くの人心を放下せず、逆に人為的に他人に多くのトラブルをもたらしていたのです。このような小さいことが長い間、少しずつ積み重ねられ、結局は大きな関になってしまい、それが一気にやって来たとき、何の思想準備もしていなかった協調人はどうすれば良いか分からなくなって、かつての輝かしさも消えつつあります。

 上記の例で、「真の協力」とは何かをここで取り上げて説明してみました。「真の協力」とは、ただ単に相手と力を合わせて事を成し遂げるだけに留まらず、その協力し合う機縁が全員に試練を与えているので、全員が真に自分を修めるべきなのです。修煉者として、どんな待遇を受けても、そのいわゆる「不公平」に思う気持ちを放下し、「無条件に相手に協力」していくことができれば、行なっている事の成功如何にかかわらず、神の目に映るのは、真に修煉し向上している彼の姿であり、結果的にどんなことも彼の修煉の道を遮ることはできません。反対に、協力したくない心理が損なったのは間違いなく自分自身です。神からみれば、その人は修煉しておらず、同じ次元に留まっていました。たとえ協調人であっても、事は成功裏に終ったものの、その過程で個人の修煉を疎かにしていた協調人が、周囲にもたらしたさまざまな良くない要素を同修たちが円融したならば、神から見れば、修煉していなかった協調人が、それらの余計に増えた良くない要素に対して責任を負うべきです。

 真に修煉しているかどうかは自分しか知らず、協力の気持ちがあるかどうかも自分自身しか知りません。他人に良くしてくれれば協力し、良くしてくれなければ協力するどころか、相手の不幸を願う心理を持つ人さえいます。このような条件付きで人心が混じっている修煉では、一つの次元に徘徊し留まるしかありません。実は、この「自己保護」は人間の殻を保護しているに過ぎません。私たちはあらゆる苦難をなめ尽くし、正法修煉をしに来たのではありませんか? 一つの次元に留まってはいつ天に戻るのでしょうか? 修煉が中途半端になってしまうのではありませんか? 真に修煉している人は、他人が良くしてくれない時もなお自分の損得を気にせず、どんな不義理をされても笑顔で協力していくことができたときこそ、飛躍的な向上と境地の昇華を得ることができ、同時に、人間の物事に対してもっと淡泊になり、真の修煉に対する理解も質的突破が得られます。

 修煉は厳粛かつ公平です。各種のトラブルや衝突を経験する中で、次第に「消極的に協力する」ようになった同修たちよ、意地を張って「公平を求める心」を放下し、「面子を重んじる心」を放下し、自分自身に「一つの試練」を与えてみて下さい。細かい事を一々計算せず、誠心誠意に他人に合わせ、チームに溶け込んでみて下さい。環境は依然として厳しく、相手に本質的な変化がみられないかもしれませんが、一点だけは確かです。つまり、あなたが変わっていること、修めていること、放下していること、向上していること、あなたが師父の苦心なる済度に申し訳が立ち、自分の衆生たちに申し訳が立ち、自分の誓約に申し訳が立つことを、「全宇宙が正視している」のです。
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/24/371507.html)
 
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