学法と煉功は呼吸するように ごく自然なもの
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年5月4日】先日、一部の大法弟子と接する機会がありました。その大法弟子の中に、20年近く修煉した古い修煉もいれば、法を得て10年の者もいます。しかし私はその修煉者たちが座禅する時に、両足を同時に組めないことに気づきました。例えば前者の古い修煉者でも、両足を同時に上げても数分しか持ちこたえられません。また、学法する時も足を崩したままで、発正念をする時にも半跏趺坐(はんかふざ)でした。師父が要求された三つのことについて、真相を伝えることや発正念をすることにおいて、秀でている修煉者と比べて、いずれも大きな差があります。個人の学法と煉功について、私の少しばかりの会得をここに書き出して、同修の皆さんと互いに励まし合うことが出来ればと思います。不適切なところがあれば、慈悲なるご叱正をお願いします。

 以前、私は「閲読と創作」の学習講座を開いたことがありました。生徒は正確に思案することが出来るように導き、勉強に対するやる気を引き出すために、『学習生活を抱擁する』という題の作文を書くことを提案しました。狙いは生徒たちのネガティブな学習態度を一変させ、積極的に学法に取り組み、学法をもう少し好きになれるようにすることが目的です。それゆえに、このことから自分の修煉についても考えてみました。「私は心から学法したいのか? 学法が好きなのか? 自分にとって水と食物が必要不可欠のものであるように、法も欠かせないものになっているのか? 座禅したいのか? 座禅は好きなのか?」と自分に問いかけてみました。最終的に言えば、私が見つけた答えは「はい、その通りです」でした。修煉は私の生命が本来、真に必要としているものです。大法弟子は絶食しても修煉し続けるのではないのですか? ですから、修煉は私達にとって、水や食物をも超える最も必要とすべきものではないでしょうか。

 私は修煉の道を歩み始めてから現在まで、修煉に対する認識上の障碍がありませんでした。しかし、法を得た最初の数年間、座禅は私にとってまるでエベレスト峰のように高く、乗り越えられない壁でした。その苦痛を表す言葉が思いつかない程のものでした。1999年7.20以降、その間拘置所に何度も不当に拘禁されました。半年の間、足の傷口からの出血が止まらず、その苦痛は座禅した時のあの苦痛に及びませんでした。周りの受刑者達が割り箸で私の足の腐敗しかけた傷口の肉をえぐり、私を痛めつけようとした際でも、私は顔色を変えませんでした。もしも、邪悪のいわゆる「試練」に臨んだ時に、私が合格者だと言えるのなら、それは全て法を得た初期に、座禅したあの苦しい修行のお陰だと言えます。毎晩のグループ煉功後、最後に帰るのはいつも私でした。なぜなら、足が痛くて立てなかったのです。また、自宅で静功を煉った後に、辛くてベッドにもたれかかって号泣することは、日常茶飯事でした。私のようないい年の成人男性にとっても、その苦痛は耐え難いものでした。しかし涙を拭いては、次の晩にもまた座禅し続けなければと認識していました。

 ここ数年の私の個人修煉状態は、座禅しなければ足がパンパンに浮腫(むく)み、全身が辛く感じますが、静功の音楽が流れるや否や心身ともにこの上なく心地よく感じます。座禅を始めてから30分経った頃に、相変わらず足が痛く感じますが、私はこの痛みを「苦痛」と言わず、「痛快」と称しています。時には、内心がウキウキしながらあの妙なる静寂に浸り、窓の外の騒々しい汚れた、功利主義(幸福と利益を価値の標準、人生の主たる目的とする倫理思想)の現実社会が浮き上がってきては、徐々に私から遠ざかって行くようでした。学法する時には、この様な状態がなおはっきりと顕れてきます。毎回このような境地の心地よさを得ることは出来ませんが、毎回の学法時に、私は常に非常に幸せな気持ちになり、まるで自分が清らかな湯の中に浸っているかのようです。

 現在の私は「修煉」という概念を持ちません。学法と煉功は呼吸のようにごく自然で、生活の一部ではなく、私にとっては生活の全てなのです。修煉は生活の装飾品ではなく、生活の主役なのです。今の自分と常人との最も大きな違いは、常人が思う苦しみや孤独感というものを、一番享受し幸福と見なしているのです。私の所持しているあまりに少額な現金や、毎日決して御馳走とは言えない食事、不十分な睡眠時間、そして雨漏りこそしませんが数羽の雀しか寝泊まりできないほど狭い狭い住居が、私の全財産です。私は常に「これがあなたの修煉環境であり、全てはもっと良く学法と煉功できるためのものなのだ」と自分を常に戒めています。

 今、自分にとって学法と座禅をすることは、すなわち高級生命の生命形式と生存形式に同化することだと悟りました。もし自分の心が極めて純正で、かつ極めて清浄な境地に至ることが出来なければ、あの水晶のように澄み切った透明な天界に生存することなどできないでしょう。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/3/384693.html)
 
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