「捧げる」と「送り届ける」についての悟り
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年5月15日】今日、『轉法輪』の中に書かれた法の一節「われわれは今日こんなに素晴らしい功法をあなたのために持ち出し、しかもわたしがすでにそれをあなたの目の前に捧げて、あなたの家の玄関口まで送り届けているのです」という箇所を暗記した時に、私は自分をコントロールできなくなり、なぜだか涙があふれ出ました。「捧げ」と「送り届け」の言葉がとても印象深く心に残り、その言葉から慈悲の心や真誠(しんせい・いつわりやごまかしのないこと)、大切さ、求めずとも自ずと得る、苦労、怖くない、等など多くのものを悟らせてくださいました。

 「捧げる」は両手のひらで高く持ち上げて、渡す動作のことです。私達があるモノを大切に扱う時、傷つけないようにする時に、気を遣って捧げる動作をします。とても尊敬している相手に対して、何かを渡す時に、尊敬の気持ちを込めて両手でものを捧げながら渡すと思います。関心も持たず、心のこもったものでもなく、敬意もなければこのような「捧げる」動作はしません。また、「送り届け」の言葉が表したものは、遠路はるばる艱難辛苦をいとわず、苦労して見つけ出し、渡す過程がそこにはあると私は認識しました。

 もし、私たちが勝手に汚れた手で大法の本を持ったり、投げるように置いたり、上に物を載せたり、不潔な所に置くとしたら、それはもはや、「捧げる」という敬意を全く払っていないことになります。

 もし、私達が声を出して大法を読み、同修の問題を解決するときなど、法の中から法理を悟ったり、あるいは、師父から直接に法の深い意味を悟らせてくださったり、その悟りを同修と交流したりする時に、みな「捧げる」の気持ちでやるべきだと思います。つまり慈悲な心で、大切にしている気持ちを現すべきです。もし自分を顕示したり、人に教えてあげるとか、人を責める気持ちを持っているとか、あるいは、これを一種の物質的利益の交換のためにやるとすれば、これはもう「捧げる」とは言えません。逆に、同修の体験(もちろん、正しい悟り)を聞く時に、同じように心から敬意を持つべきです。つまり、「捧げる」の気持ちで、同修へ「送り届ける」気持ちで行なうべきです。これが法に対して敬意を持ち、師父に対して敬意を払うことだと私は思います。

 大法に無限の内包があります。以上の認識は個人修煉の次元の悟りに過ぎません。これからも、同修と共に切磋琢磨し、精進しっていきましょう!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/25/385532.html)
 
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