発正念を重視し正念を保ち着実に修煉する
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文/スイスの大法弟子

 【明慧日本2019年6月20日】発正念は私にとっていつも大きな壁でした。日常生活の中で、子守や家事、仕事が忙しいため、決まった時間に発正念をすることが難しかったのです。

 読書が好きな私にとって、学法を続けるのは比較的簡単で、煉功も毎日やっています。しかし発正念は大きな問題になり、時間がないためほとんど行なっていなかったし、特に時間を割(さ)いて発正念するのが嫌だったのです。

 内に向けて探すと、これは正念を持ってないため根気が足りないという執着だと気づきましたが、なかなか改善できませんでした。発正念をするつもりで15分座っていても、集中できず、仕事の事やら、家事の事やらで頭いっぱいでした。しかし発正念が終わると、師父の要求を思い出して、すぐ恥ずかしくて悔しくなりました。

 師父は次のように言われました。「大法弟子にとって今三つのことしかありません。一つは真相を伝えること、もう一つは正念を発することで、その中には自分自身と自分の体の外部の形勢に作用させるということを含みます。最後は自分自身の修煉と法を良く勉強することです。この三つのことは皆極めて重要なことです」[1]、「これは極めて重要なことです。大法弟子の誰もこのことを軽視してはならず、いかなる口実でも正念を発することをおろそかにしてはいけません。自分自身をきれいにすることができなければ、あなたはしっかり行なうことができません。更に、自分自身をきれいにすることができなければ、他の人まで妨害してしまいます」[1]

 師父の説法に震撼された私は繰り返して本を読みました。私は自分に問いかけました。「なぜ発正念に集中できないのか? それは三つのことをきちんとやっていないことで、本当の修煉者でないことになるのではないか?  師父はこんな自分を真に修める弟子だと見なされるのか?  師父の説法と要求の中で発正念に対する内容がいくらもあり、法は全てつながっていて、発正念を逃すことは修煉に漏れがあり、旧勢力に隙を乗じられることになるのではないか? 」

 これらの問題を意識してから、発正念にだいぶ集中するようになりました。私は発正念に対して、なぜ発正念をするのか、真剣に考え始めました。『轉法輪』を読む時、次の内容に気づきました。「果してそれで開眼することができるのでしょうか? それは彼らがいかに読経するかによります。釈迦牟尼は正念を重んじています。自分が修煉しているその法門の世界を本当に震動させるほど、一心不乱に読経して、はじめて覚者を招くことができます。その覚者の法身の一つが佛像に降りてはじめて開眼する目的が達成されることになります」[2]

 また、師父はこのように説かれました。「それからこのような人もいます。以前身体に憑き物があると人に言われ、自分自身もあるように感じましたが、取り除いてあげてからも、気病みが消えず、いつも以前の状態がまだ残っていると疑っているのです。これはすでに執着心になっており、疑心(ぎしん)と言います。時間が経つにつれて、また呼び戻してしまう恐れがあります。あなた自身がその心を捨てなければなりません。もう何も残っていないからです」[2]

 「暗唱」という言葉がいつも私の目の前に現れていました。このことは師父の法を暗唱するように教えておられるのではないでしょうか?  私が最後に暗唱したのはいつだったでしょうか?  前には章毎に暗唱できたのに、やめてしまったその原因は何だったのでしょうか?  私は再び毎日一段落の『轉法輪』を暗唱することにしました。そして暗唱する時に師父がいつも私にヒントを与えてくださると感じました。

 これらの法を暗唱することによって、私は大法の修煉者として終始正念を保たなければならないと意識しました。特定な状況や、発正念をする時に限って正念を持つのではありません。師父が語られた憑き物の例と同じく、私たちがあることを心配している時は、その心配は私たち自身から発したものではありません。もしいつも自分の仕事や、それをどう解決するのかを考えていると、逆に仕事の量を増やすことになるのではないでしょうか?

 師父が私にはっきりヒントを与えてくださったことを思い出しました。小さな出来事ですが、私にとって大変重要なことでした。神韻を推進する期間中、私はあまり息子と一緒にいる時間がありませんでした。たくさんの事をどうバランスよくこなすか、当時プレッシャーを感じた私は焦りが出てイライラしている状態だったので、親子の関係も緊張してしまいました。ある日、怒りが爆発した息子は、法輪大法の事ばかりしていて、自分に無関心だと私に不満を言い出し、自分の部屋からベッドサイドのテーブルに置かれた「真・善・忍」の書の飾りを撤去して、もう要らないと言いました。私は失望感と悲しみに襲われましたが、冷静になり、息子を叱らなかったのです。当時私が冷静で、心中穏やかにいられたのは、師父が助けてくださったからだと思います。

 私は内に向けて自分の修煉を探し、自分には慈悲心が足りなかったと気づきました。私は息子に失望感を持っていたのは、かなり前から私と一緒に学法しなくなり、スマホやパソコンのゲームに夢中になって、時間を無駄にしていたのです。息子が自分の人生を壊してしまうのではないかと心配しました。しかし、私は青春期の彼に迷うことや不安定の要素もあるとは考えつきませんでした。息子は学法していませんでしたが、私の神韻の活動を支持し、パンフレットを車に運ぶなど手伝ってくれました。また神韻を推進する時や、外で大法の真相を伝える時、家事をする時間のない私を手伝って掃除などしてくれました。

 息子の立場から彼の苦しみを感じて私は涙が出そうになりました。これからは慈悲心を持って、辛抱強く息子に接しなければならないと思いました。また、師父が息子に正しい道を選ばせ、再び大法に戻ってくる日があると信じるべきです。私は息子の事を心配するばかりでなく、正念を持つべきです。私は息子と話しませんでしたが、彼のベッドサイドのテーブルに置かれた「真・善・忍」の飾りは、1週間経って再び元の場所に戻ったことに気づきました。

 自分は毎日のように煉功と学法をしていますが、はたしてどのような態度を持って学法をしていたのか?  ただ機械的に学法をしていたのか?  本当に学法をしていたのか、それとも法を読むだけなのか? 私はこれから本当の学法ができるように師父に助けを求めました。

 師父はこのように語られました。「本当の修煉は、すべてあなたの心にかかっています。 あなたが修煉できさえすれば、着実に揺るぎなく修煉していきさえすれば、われわれはあなたを弟子として導きます。 そういうふうに扱わなければいけないのです」[2]、「毎日幾つかの動作を行なうだけで、法輪大法の弟子と言えるのでしょうか? そうとは限りません。 本当に修煉しようと思えば、われわれの言う心性基準に基づいて自らを律し、本当に心性を高めなければならず、それこそが本当の修煉です。 ただ動作だけをやっても、心性は向上せず、一切を加持する強いエネルギーがなければ、それは修煉とは言えず、われわれもあなたを法輪大法の弟子として認めるわけにはいきません。毎日煉功をしていても、法輪大法ファルンダーファの要求に従わず、心性を向上させず、常人の中で元通りに振舞っていては、そのうちに、なにか厄介なことに遭うかも知れません」[2]

 私自身に問題があるのではないでしょうか?  この章を数え切れないほど読んだことがあるにもかかわらず、その中の真の意味を悟っていませんでした。自分がこの章をただ閲覧していたにすぎないと気づきました。なぜなら、私は学法している人を師父が皆弟子と認められると思い込んでいました。どうして自分がもっと深い意味を悟れないのでしょうか?  もし私たちが正念を保つことができず、全ての状況において正念を持って対応できなければ、どうして自分の心性を向上させられるのでしょうか?  ネガティブな考えはマイナスの要素を増加する一方で、互いに疑い、不満を持ち、相手と比較することになり、私たちをこのような状態で疲れ果てさせるのです。

 師がおられ、法があり、私たちはどこにいても、何をしていても、師父はいつでも側で守ってくださいます。全てが師父の按排の中にあるのです。それなのに、私はどうして疲れを感じ、勇猛邁進できないのでしょうか?

 師父の慈悲は無限です。弟子として、私は慈悲の心と強い正念を持って、人心を放下して衆生を救い済度しなければなりません。それこそ師父に対する感謝であり、真の弟子になれるのです。

 次に私は師父が按排してくださった素晴らしい出来事をご紹介します。

 ある日差しの暖かい日曜日、私は息子を連れて湖に遊びに行くことにしました。当時は神韻の推進期間中で、やるべきこともありましたが、私は1日をゆっくり休んで、息子と一緒に楽しい時間を過ごすつもりでした。息子と散歩している最中、3人の年配の婦人がベンチに座っていて、その中の一人が私に、「助けてくれませんか? 私を起こすだけでいいのです」と頼みました。もちろん大丈夫なので、私は彼女を手伝って起こしました。彼女は私に感謝し、私と息子は散歩を続けました。数メートル離れて私はふとこれは縁ではないかと気づきました。神韻のチラシを渡そうと思いましたが、残念ながら全部車の中に置いてしまったので、持ち歩いている財布の中に数枚の神韻カードがあるのを思い出しました。私は戻って彼女に渡しながら、簡単に紹介しました。すると彼女が明るい笑顔を見せ、「神韻ですね!  私はポスターを見たことがあるわ。でも、公演の時間と場所が覚えてないのです。私は公演に非常に興味を持っているので、カードをありがとう」と言ってくれました。私は嬉しくて涙が出そうになりました。

 また、ある時、用事があって外出することがありました。時間が少ないので、本来なら車で行くべきですが、毎日部屋にいるばかりの私は、外の新鮮な空気を呼吸しようと思い、あえて歩いて行くことにしました。結局途中で10年ぐらい会ってない元の同僚に偶然に会いました。私は彼女に神韻の事を伝えながら、チラシを1枚渡すと、彼女は喜んでそのチラシを受け取りました。私が車で行くことにしていたら、たぶん会えなかったでしょう。師父は縁のある人を私に会わせるように按排してくださいました。

 もう一つの出来事です。私は息子に私と一緒に神韻のチラシを住宅のポストに入れようと誘いましたが、彼は足が痛いから行きたくないと言いました。私は感情に出さず、ただ発正念をすると同時に、師父に助けを求めました。私は息子に「足が痛いことは心配しないでね。神韻の重要性は分かっているでしょう?  自分の心の扉を開くことができれば、師父があなたを助けてくださるわ」とやさしい声で話しました。すると、息子はチラシを配ることを決めました。チラシを配ってからしばらくすると、息子はもう足が痛くなくなったと気が付きました。親子で力を合わせ、あっという間にチラシを全部配りました。

 正念は成功の道に導く力でもあります。以上は私が学法を通し、またほかの同修と修煉体験を交流することや内に向けて探すことによって理解したものです。私はこれからも更に内に向けて探し、すべての困難を克服し、いろいろな執着心、特に尊大ぶる執着心を放下しなければなりません。

 師父の無限な慈悲に感謝申し上げます。同修の皆さんに感謝します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/6/7/388381.html)
 
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