博士課程大学院生の悟り 「学法を大切に」
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2019年6月30日】師父は「大法は果てがなく、佛法も果てがないので、あなたのその心を頼りとして修めていきます」[1] と説かれました。修煉を始めたころに、私は学法する度に、毎日、新たな体験があり、法に照らして、新しい執着心が見つかり、すぐ取り除いていきました。その時の学法は、迷子が帰り道を見つけたように、もっと多く学法したい、よりよく行ない、早く家に近づきたいという気持ちでした。

 修煉をするに従って、私は法を実証する複数のプロジェクトに参加し、忙しくなりました。毎日の学法はしっかり行ないますが、最初のころのように落ち着いて学法することは難しくなり、学法の時間も少なくなりました。師父は「いくら忙しくても、法を学ぶときには、如何なる考えも放下し、他に何も考えずにただ法を学ぶべきです。あなたが法を学んでいる中で、考えている問題が全部解決されたかもしれません」[2] と説かれました。師父の説法通り、生活やプロジェクトの中で出て来た問題や、心性の試練は学法の中で解決されました。落ち着いて学法する時、法の中に新たな法理が現れ、私が向上する必要のある部分を自然に私に分からせました。私は単純に法理に従って向上し、執着を放棄すれば、師父が私の知恵を開いてくださり、出てきた問題について、自然に解決方法がわかります。私はなぜいつも師父が三つのことの中で学法が一番大事なことだと言われるか分かりました。

 時間の流れに伴って、私の修煉も成熟し、明慧ネットの文章を通して、同修たちと交流し、理性的に学法の大切さが理解できるようになりました。徐々に、最初のころの学法と比べて、直接新たな法理や直感を感じることはなくなりましたが、今は学法すれば、言葉に表現できない変化を感じます。それは、呼吸のような自然な変化だと思います。多くの場合は、学法すれば、心が軽くなり、或いは主意識がもっとすっきりすると感じました。

 時々、学法する時、少しの変化が、明らかに異なる結果をもたらします。例えば、ある日、私は学法しようとした時、同修との交流の中で話した「師を尊敬する、法を尊敬する」ことを思い出して、「その当時学校へ行く人は、みな座禅を重んじ、座る姿勢にも厳しかったのです」[3] の法理を意識しました。大法は如何なることよりも大切で、学法する時、私は古代の儒生より、厳しく自分を要求しなければなりません。私は心から敬意を持って、足を組み腰をまっすぐにして座禅して、両手で大法の本を持ち上げて学法していました。途中で、疲れたと感じ、無意識のうちに腰が曲がると意識したら、すぐまっすぐにしました。このように読めば読むほど、突然、自分が周りの世界と隔てられ、入定したようなような感じになり、「自分が卵の殻の中に座るように美妙で、非常に気持ちがいい感覚が現われ」[4] ました。この感覚は座禅するときも、感じたことはありませんが、学法の時、初めて感じました。この感覚は一回しかないのですが、学法する時、自分の態度が大事だと認識しました。周りのすべての物事に対しても、自分の態度が大切だと認識しました。これは、自分が主動的に法を同化するか、受動的に法に同化するかに関わることでしょう。

 その後、同修の啓発により、私は法の暗記を始めました。時間があまり取れないので、毎日1段落か2段落しか暗記できません。一つの小節を暗記したら、できるだけこの小節を全体的に一度暗記するようにしました。1年経って、やっと『轉法輪』を暗記しました。法の暗記によって、私は問題がでてきた時、頭の中に、法の原文を直接反映しました。そして、私はこの法の原文を心で一回一回念じて、思想業力や妨害を排除でき、落ち着いて出てきた問題を解決できました。第九講の最後の「大根器の人」や「結語」を暗記する時、大変暗記しにくいと感じました。一つの文の法の容量はとても大きいと感じ、一つの文だけ暗記すると、身体の中に一つの宇宙を押し込んでいるように感じました。私の容量も一つ一つの文が押しこまれ、既にどのぐらいの容量になっているか自分にも分かりません。その玄妙な感じによって、私は師父が説かれた「皆さんが修煉して向上できるもの、修煉の中で得ることのできるものを全て法に詰め込んだと私はいつもこのように言っています。皆さんは異なった境地にいますが、誰もこの話の重みを本当に理解することができません」[5] を、自分の次元で更に理解しました。以前、法理上に師父が説かれた学法は大法弟子を変えることを理解しましたが、今回は直接体験しました。師父は私たちが見えない、知らないところで、私たちのために、たくさんのことを行なわれました。

 今年の神韻が終わる時、私は一部の執着心を神韻を宣伝の期間にまだ完全に放棄していないと意識しました。一部の難関は忍耐力や、意思の強さによって乗り越え、執着を放棄していましたが、心の中に一部がまだ残っていました。最近、私は二回目に法を暗記し始めました。今回は、一小節一小節で暗記しています。ある日、私は外で買い物をしながら、心でその日に暗記する部分を暗記し、家に帰ったら、足を組んで煉功した時、突然、暗記したその小節のタイトルが頭の中に反映して、その小節の法が着実に私の空間場に現れ、一瞬で心の中に「私はすべてを擁する」と感じ、その嬉しさは言葉で表現できませんでした。今この部分を書く時も、その嬉しさと幸せの感覚が再び私の心身に溢れています。

 大法は私たちのすべてであると感じています。体験できるかどうか別として、師父は私たちに一番良いものを与えてくださっていることを信じ、できるだけ学法に力を入れていきます。師父が与えてくださったものは私たちがお返しできるものより、永遠に大きいのです。

 僅かな体験ですが、皆さんと交流して、互いに励まし合いたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪法解』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「米国フロリダ法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [4] 李洪志師父の著作:『大圓満法』「三、動作の機理」
 [5] 李洪志師父の経文:『スイス法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/6/19/388913.html)
 
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