自分や相手、環境を大切にする事についての私の悟り
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 文/米国の大法弟子 金娜

 【明慧日本2019年8月14】私が皆さんとここで交流したいことは、自分自身や相手、そして与えられた環境を「大切にする」ことについての私の悟りです。

   師父は私達に「皆さんが自分自身や相手、そしてこの環境を大切にするよう望んでいます。歩んできた道を大切にするのはつまり、あなた自身を大切にしているのです。自分たちが歩んできた道も大切にしてこそが自分を大切することになる」[1] 教えて下さいました。

 師父が第一に考えられているのは、私達弟子の昇華と円満成就であることを私は悟りました。弟子にとって言えば、正法の中で自分の使命を果たし、衆生済度を大切にすることです。現在、邪悪要素が少なくなり、しかし大法弟子が自分を修め、衆生を救い済する使命を果たすためには、残された道をしっかりと歩まなければなりません。だから私たちはもっと自分を大切にすることを求められています。

 私たちと出会うすべての衆生を大切にすることについて、師父の説法から悟ったことは、今の世のすべての人々は高次元から来ており、自分のいる天体を代表し、苦しみを嘗め尽くして、大法が伝え出されるのを待ち続け、創世主に済度されるのを待っています。しかし長い歳月の中で、彼らはこの世に迷い、一部の人は常人の中で溺れてしまいました。しかし彼らは目的があってこの世に降りて来た生命なので、大切にしなければなりません。

 今年、このような出来ことがありました。私はあるスーパーで仕事をしていました。このスーパーの従業員のほとんどはスペイン系のラテンアメリカ人で、言葉が通じないために彼らとあまり話していませんでした。ある日の夕方、一部の従業員が退社し、私1人が倉庫で仕事をしていました。そこへ1人の若い男性が入って来て、私の横の棚の上から鋭い刃物を手に取って私に向けました。冗談だと思いましたが、彼をみると陰険そうな顔つきをしていました。その時、私の脳裏に現れた一念は、あなたは私に触れることはできない、という一念でした。私は彼に「ノー! ノー!」と言うと、彼は立ち去りました。

 後になって思い出すと怖くなりました。なぜ、このようなことに出遭ったのか? 自分に向けて探して見つけた心は、スペイン系のラテンアメリカ人の彼らを見下す心がありました。今まで彼らの仕事ぶりを見て、仕事に身が入っていない、衛生面を重視していないというような悪い習慣などをこの目で見てきました。しかし、彼らは元、天上の王であり、大法弟子の傍に来たのは縁を結ぶ為です。なのに私は彼らを大切にせず、排斥してしまいました。だから邪悪に隙を乗じられました。これは大きな漏れです!

 のちに私は積極的に彼らと挨拶を交わしたり、仕事を手伝ったりしました。彼は携帯電話の翻訳ソフトを使って私と会話していましたので、私の話しは通じないと思い、彼らに大法の真相をまだ話していませんでした。ある日、私はイヤホンをつけて大法弟子の音楽を聞いていました。ある同僚が私に近寄って来て「何の曲を聞いているの?」と聞かれ、すぐにイヤホンを取って彼の耳につけました。彼は聞いている内に笑顔になり、親指を立てて称賛してくれました。私は「これは大法弟子が作った音楽よ」と彼に教えると、彼はすぐに合掌して、大法とキリスト教との関係をいろいろ聞いてきました。

 数日後、「法輪大法は素晴らしい」と中国語と英語で書いてある蓮の花がついたしおりを彼に渡すと、彼はこの言葉をすぐに覚え、他の同僚にも教えていました。何人もの若者が時々私に近づいては、満面の笑みで中国語で「法輪大法は素晴らしい」と話しかけてくれました。もしかして、彼らが中国語で話せる唯一の言葉たっだのかもしれません。これは確かにその生命が救われた喜びの現れでしょう。私は再び彼らを振り返って見ると、あのように活発な彼らを見て、とても生き生きとして可愛いいと思えるようになりました。

 同修との縁を大切にする

 大法弟子は師父について、一層一層と三界まで降りて来ました。遥かに長い年月の中で聖なる縁を結び、今日まで歩んでこれたことは、とても大切にする価値があります。しかし、まだ取り除かれていない人心に妨害されたり、同修との間に摩擦が起きたりした時、自分は修煉者であることを思い出して、内に向けて探すと同時に、他人を大切にし、同修をも大切にすることによって、トラブルや同修との隔たりも解消され、皆が一体になることが出来るのです。

 私は十数年修煉する中で、同修との間では大きなトラブルがなく、だからこの方面の試練もありませんでした。しかし、修煉は厳粛であり、各方面からの試練があり、なに一つ無駄なことはありません。師父がおっしゃいました。「難やトラブルが起きる時、あらかじめあなたに知らせることはありません。何もかもあなたに知らせたら、何を修煉するというのですか? 効果もなくなります。それはいつも突然に現われるからこそ、心性の試練となって、本当に人間の心性を高めることができます。そして、その時こそ、心性を守れるかどうかを見て取ることができるのです。ですから、トラブルが起きるのは、偶然ではありません」 [2]

 以前から一緒に神韻の活動をしていた同修が些細なことで急に怒り出し、彼女は私に会うとひどく腹を立て、声をかけても相手にしてくれませんでした。私は彼女に声をかけ続けましたが無視され、それ以後、私たちは一緒に活動ができなくなりました。1人の同修の手助けにより、大事な衆生済度には影響しませんでした。私はずっと彼女と交流する機会を探していましたが、彼女はまったくチャンスをくれず、たまたま、神韻公演の時に会場のロビーで彼女と出会いました。私は彼女に暖かく声をかけても、彼女は私の顔を見ることもなく、すぐその場から立ち去りました。同年のお正月に私は携帯電話で彼女に年賀を送りました。彼女からの返事は「私を邪魔しないで、あなたの電話番号も消去しました」と書いてありました。その後、幾度もその同修に会って再三にわたり、「私が悪いのです。どうか許してください」と謝っても、返事をしてくれませんでした。

 これは私が乗り越えなければならない試練であると分かっていました。私はどこに間違いがあるのか分からず、皆と一緒に学法をし、交流をして、自分の執着心を一つ一つ探したところ、依頼心を見つけました。彼女と一緒に活動する時、いつも相手に依頼をして手伝ってもらい、また慈悲心が無いことも分かりました。昨年の法会の際に、80歳の同修を連れて来た同修に対して、「年配の同修を二度と連れて来ないで」と言ったことを思い出しました。80歳になっても法会に参加する、これはどんなに素晴らしいことでしょうか。なのに私は来てはいけないなどと言ってしまい、しかも数カ月の間、自分が悪いことをしたことに気付きませんでした。この道理が分かり、自分を正し、自分の空間場にある悪い物質を取り除き、同修との縁を大切にするようにし、全てのことを自然に任せるようにしました。すると彼女との関係は以前のように良くなりました。     

 電話かけのチームの修煉環境を大切にする

 全世界RTC電話掛けチームに入って、真相を伝える電話をかけて5年が経ちました。私はこの環境をとても大切にしています。最初の1、2年は他の同修が電話をかけているのをずっと聞いていました。交流の時もほとんど喋べることもなく、これで圧力もなく、良いと思っていました。しかし、修煉は厳粛なものであり、楽で圧力もなく、これでは修煉と言えず、向上することも出来ません。

 3年前から、皆と一緒に電話をかける勇気がなかったので、自分1人で電話をかけ始めました。のちに第二の電話かけの部屋ができ、時にはここで小人数の電話かけが行なわれていました。その後、協調人や同修から第一の電話かけの部屋が人手が足りないので、来てほしいと言われ、ためらうことなく、必要であれば行くべきだと思い、毎週1回の電話かけ当番をなんとかこなすことが出来ました。

 しばらくして、もう1人の協調人の同修から夕方の時間帯に人手が足りないと言われ、電話かけが順調に行なわれるために、私は引き受けることにしました。しかし引き受けるのは簡単ですが、実際に行なうのは難しく、朝5時半から電話をかけ始め、交流を含めて8時半に終わり、それから急いで仕事に行きます。仕事を早く終わらせて急いで家に戻り、夕方の電話かけ当番をしなければならず、このようにしていると、毎日確実にやっていた学法と煉功が出来なくなりました。

 何回か協調人に言って、一つ当番を減らしてもらおうと思いましたが、自分の責任だと思って、どうしても言い出せずに今日まで頑張り、1年が経ちました。この状況下で、協調人からさらに二つの当番を依頼され、頑張ってほしいと言われ、私はその依頼をまた引き受けてしまいました。このようにして、週4日の電話掛け当番をするようになりました。辛いけれども長年にわたって、多くの衆生が救われているのを見ると、そんなに辛いとは思わなくなりました。

 私はかつて他の衆生を救い済度するチームに入ろうと思ったことがあり、そのチームの交流を覗いて見ようと思った時、突然、パソコンの画面が動かなくなりました。さっきまで正常に動いていたのに、なぜ急に動かなくなったのか不思議に思い、もしかして、私に何かを悟らせようとしているのではないかと思いました。冷静になって考え、パソコンの画面が動かなくなったのは、別のチームに行ってはならないのだと悟り、心の中で師父に謝りました。「私はどこにも行きません。RTC電話かけチームで衆生を救い済度することにします」と言うと、パソコンの画面が動き始めたのです。

  このことに私は心を打たれ、この特別な時期に大法弟子の立ち位置が決められており、勝手に自分の立ち位置を変えてはならず、変えてしまうと、相手の立ち位置までも奪ってしまうことになり、自分の立ち位置に穴が空いてしまい、全体が乱れてしまうことになります。これらを悟った時、私は覚悟を決め、RTC電話かけチームに残ることにしました。

    一難が去れば、また一難がやって来ました。先日、電話かけチームにおいて改革が行なわれ、考えもしませんでしたが、私はある時間帯の当番の班長になりました。私にとって一つの挑戦であり、相談する余地もなく、試しにやって見るしか、他に選択肢はありませんでした。

 第1週目は同修達の協調が良くできていましたが、第2週目に入ると1人の同修の仕事時間が変わり、電話かけができなくなり、さらに、もう1人の同修は用事で休むことになり、電話できる者は私を含めて3人しかいませんでした。いざ電話かけを始めようとした時、同修の1人のパソコンが突然故障してしまい、結局、私と新しい学習者の2人になってしまいました。そこで私は思いました。例え私1人になったとしても、邪悪の妨害を認めません。師父の説かれた「肝心なのは、何かをするときの心構えで、それらに付け入る隙を与えないようにすることです」を思い出しました。その覚悟を決めるとその後、同修達が次々と応援に駆けつけてくれ、そのおかけで、全てが元通りに順調になりました。

 以上は個人の悟りです。もし不適切なところがあれば、慈悲をもってご指摘してください。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」
 [2] 李洪志師父著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父著作:『各地での説法二』「二〇〇二年ボストン法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/2/390918.html)
 
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