着実に修煉しない様々な現れについての私の見解
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 文/海外の大法弟子

 【明慧日本2020年7月10日】最近、学法を通して大法弟子の中のいくつかの良くない現象について、新たな理解がありました。ここで文章にして自分で自戒すると同時に、この面において、修煉ができていない同修への注意喚起にもなると思います。

 一部の大法弟子はどのように修煉すべきかが分かっておらず、しかも、党文化の悪影響をひどく受けているため、他人には彼らの真修の一面がなかなか見えません。また、一部の着実に修煉しない同修は、様々な良くないやり方で、自分の修煉中の不足なところをごまかし、自分のイメージを飾り立てようとしています。

 ここではいくつかの例を挙げますが、同じような認識を持つ同修は補足があっても構いません。

 1. 他人の損得を論議する

 例えば、ある同修はどうのこうのとか、心性はどの程度だとか、ある役者の演技はどうのこうのとか、師父はどこそこにいらっしゃったとか、誰々に何を言っておられたとか等々です。これらの事は自分の修煉とは全く関係がなく、口を修めない現れです。これらの現象によって、中国国内から来たばかりの大法弟子は皆の話を聞いて、自分が何も知らないように思い、ついつい仲間入りして一緒に議論するようになります。さもなければ、自分の修煉が落後しているように見えるからです。このように、多くの同修が他人を非難するようになり、電話で他人のことを批評する場合もあります。これは間接的に中国共産党へ情報を与えてしまい、大法弟子の中で何かを操る機会を作ってしまいました。例えば、誰を弾圧し、誰を疎外し、誰と誰の仲をさくなどが考えられます。何かおかしいことに出会ったら、中国共産党に仕掛けられたのかもしれません。

 実はこれらのことをする自体は、自分の修煉と何の関係もなく、全て常人の執着心によるものです。例えば好奇心や顕示心など、これらのことを言うべきではありません。他人の修煉がどうのこうのなどは、その人自身が考えるべきことであり、師父も一人一人の弟子を見ておられるのに、なぜ、私たちは熱中して陰で他人のことを批評するのでしょうか? 同修を褒めて持ち上げなければ、同修に歓喜心が生じて落ちるわけがありません。同修に皮肉なことを言わなければ、修煉の出来ていない同修は、当てこすりの言葉と向かい合うことがないはずで、それらによって修煉がさらに難しくなることもあります。

 2.噂話を広める

 一部の人の考えは、まるで情報源が隠されていて、うかがえなければないほど、山の同修との関係が親しく自分の地位も高められたように感じます。一部の着実に修めない同修は、師父の側にいるしっかり修煉している同修が誰も知らない情報を知っているのを見て、羨ましく思い、ワクワクしてもっと多くの情報を収集し、あちこちに広めています。このようにして人を丸め込んで、自分を中心とした集団を作ろうとしています。この人達は自分の知っている情報を用いて、身分を持ち上げたり、自身を飾り付けたりして、修煉する中で着実に心性を高めようとしません。

 3.小さなグループを形成し、金持ちや権力者に追従する

 一部の同修は様々な付き合いが多くて小さなグループを形成し、あるいは「比較的に権力のある人達」に取り入ろうとして、他の同修を排斥しています。これは、大法弟子の修煉とお互いの協力において目に見えない妨害となり、なかなか消せない影を形成してしまいました。これらの人は普段から自身の修煉を重視せず、常人の中の恩恵や付き合いなどを利用して、大法弟子の中で自分の知名度と地位を高めようとしています。しかし、いかにして私心を放下するのか、どうのようにすればプロジェクトに有益になるのか、同修のためになるのか、衆生のためになるのかを考えていません。

 4. ゴタゴタして、理屈に合わないことをする

 偶然に、ネット上でのある学法グループに参加しました。皆はもともと純粋な心で法を読んでいましたが、勉強後、ある同修は個別の文字の発音についてあら探しをし、この同修はここをちゃんと読んでいなかったとか、あの同修のそこの発音が悪いとかと言いました。発音を指導する学校や辞書には正しい発音が書かれていますが、中国の年配者の庶民はきちんとした教育を受けていないために、規範的には読めない傾向があるなど、と互いに言い争って誰も譲りません。

 この同修は表では間違いを指摘し、師父の言われる通りに読まなければならないと言っていましたが、実際には自分を高めようとしていると私は思います。他人の欠点を摘み取ってこそ、上に立って他人を教え、コントロールすることが出来るという感覚を得られるのです。重要ではない事についてわざと騒ぎ、皆の視線を集めて好評を受けたいわけです。

 党文化を持っている人は謙虚さを知らず、他人を理解せず、他人の気持ちや自尊心を考えずに、自分の意見を他人に押し付けてしまいます。実際には、上記のようなやり方は、大法弟子を内向きにし、自分の心性を高める根本から逸脱させて、修煉の環境に影響してしまいました。この人達は手段を弄して、自分が着実に修煉していないところを隠そうとし、自分が本物の着実な大法弟子に見えるように思わせ、とても師と法を信じているように極力周囲にそう思わせ、皆を惑わしました。

 実は、この人達を見分けることは難しくありません。着実に修煉している大法弟子は往々にして表に現れず、静かに実際に修煉し、黙々と皆を支えて無私に補い合う人達です。それに対して、いつも人前に出ようとしている人達とは、雲泥の差があるとしか言いようがありません。

 大法弟子として、自分を常人と見なして、大法弟子の環境を複雑な小さい社会にさせるか、それとも自分を神と見なして、至る所で修煉の境界を現し、修煉の環境をさらに純潔で神聖なものにさせるか、これこそが根本なことです。自分を修煉者と見なしていなければ、大法弟子の中で行なったことは、必然的に人心に駆けられてしまい、修煉の環境を破壊する可能性さえあります。

 師父は経文『考えをはっきりせよ』の中にこのように説かれています。

 「学習者として、師父の要求に従って行なっていなければ、これは小さい問題ではないはずです。旧勢力はすべての大法弟子に対してそれらのものを按排しました。もし大法弟子が師父の要求に従って行なっていなければ、きっと旧勢力の按排に従って行なってしまったことになります。旧勢力は実質上、法を正す中で大法弟子が出てこられるかどうかに対して、いつも皆さんのそばにある巨大な関と難です。

 今回の魔難を経ても、考えがまだはっきりしない学習者がもしいれば、このすべてとすれ違ってしまいます。師父の要求に従って行なってこそ、大法弟子が法を実証し、自らを修煉することになり、これが本当の大法弟子なのです」

 師父の16年前の説法を復習し、当初のいまひとつ分からないような感覚がなくなりました。大法弟子の中での様々な現れを見てみると、それほど理解しにくいことではありません。もし、誰かが師父の要求された通りに従わず、名、利、情を手放さずに大法弟子のプロジェクトの中で妨害作用を果たしたら、旧勢力がやろうとしていることをやっていることになります。師父の要求される通りに、あらゆる方面で内に向けて探し、自分をしっかりと修め、衆生を救う人こそが、本当に修煉している人と言えます。

 
(中国語:www.minghui.org/mh/articles/2020/6/10/407459.html)
 
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