文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年7月14日】私は、師が法を正す事を手伝うことを、今日まで20年以上続けてきましたが、師父と大法を信じる気持ちが揺らぐことはありませんでした。数年前、真相を伝える頃の私は、心が純粋で、正念が強く、利己心もなく、慌てず、落ち着いて人に真相を伝えていました。話した相手はみんな理解することができ、自然に三退を選択し、または大法に感心して、感謝の意を示し、命が救われました。実際、これはすべて大法の力の現れであり、師父の加持があってこそ、人々が救わたのです。
しかし、いつからか、昔ほど真相を伝える効果がなくなりました。真相を語ることに落とし穴が存在しました。それは、だんだん自分の何かを他人に紹介するような感覚で真相を伝えようとしていました。心の中に強い目的意識と切迫感を持って人に勧めるようになっていたのでした。すぐに真実を受け入れてもらおうとする焦りが露わになり、話すときも一方的に話し、まるで任務を成し遂げるかのように、聞き手の気持ちを考えずに、自分の意見や認識を他人に押し付けてしまいました。自分の気持ちが焦っているため、発した言葉に法の力がなく、人の心に響くどころが、まして本性に触れることができませんでした。真相を語る効果がなければ、人を救えず、自分も精神的に疲れてしまいます。ずっと心の中に靄(もや)がかかったように、すっきりせず、暗くて、居心地の悪い感じがしました。
じつは、人に真相を伝えたいという思いは、真相を理解させて、救われるということですが、でも実際やる時に非常に強い人心を持っていました。焦る心、結果を重視する心、名利心、歓喜心、人によって違う扱いをする心、感情に流される心、などなど。特に、名利心と感情に流されやすい心が酷かったです。人が真相を受け入れて、三退を同意するとき、本当に心から嬉しくて、喜びを感じ、自分は成功したと思いました。しかし、人が真相を拒むとき、または酷いことを言われたとき、気持ちが沈んで、挫折感やコンプレックスを感じ、悩み続けて、暫く気持ちが晴れなくなります。これこそ、名利心や情に動かされた典型的な表れで、自我に執着していることになります。自分の目的のために行なっているかのように真相を話し、実際にこの時は、衆生の真の救いのためではなく、利己的に行なっており、それに気づかずに自我を実証するという落とし穴にだんだんと陥っていきました。
自我とは利己心の表れです。法の力も師の加護もなく、そのような悪い利己心で真相を語ることを想像してみてください。 命を救う効果があるのか、結果を見なくても分かります。
今日、この問題に気づいて、私はすぐに自分の状態を修正し、それらの執着心を取り除き、自我の落とし穴から抜け出ました。純粋な気持ちで真相を語り、本当に人を救けることが目的です。自分の執着心を見つけて、すっきりしました。何日も心に詰まっていたモヤモヤが急に解消され、真相の伝え方も分かりました。このすべては、師父が助けて下さいました。自我に執着した心を見つけた私を見て、師父は私の悪い物質を取り除いてくださいました。師が法を正す事を手伝う道に、私を再び前に押し出してくださいました。 師父の慈悲深いお守りに感謝しています。
修煉では、まず自分の問題点を認識し、率先して修正してこそ、自分を浄化し、自分を昇華させ、師父に求められる三つのことができるのです。師父は私達に「他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」[1]と言われました。真相を語り、人を救うということは他人のためであり、無私無我でなければなりません。
私は師父の要求に基づいて実行し、今後の大法修煉の中で、もっと法を学び、法に同化し、常に法の中で自分を磨き、合理的に賢明に真相を語り、真に人々を救うという目的を達成したいと思っています。
ちょっとした考えですが、どうぞ、ご指摘してください。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」