心を修めることの素晴らしさ
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年10月6日】師父は何度も内に向けて自分を探すことの重要さについて説かれました。「内に向けて探す」という法理について、近年、ある出来事を通じてようやく悟ることができました。修煉を始めたので、身の回りに何かが起きた時、必ずその理由や因果が存在しており、人心や執着心があるからトラブルが起こるのです。宇宙の高次元から低次元まですべてが大法に制約され、また、低次元は一つ上の高次元に制約されており、保護神はいかなる所にも存在し、しかも常に、絶対的に公平な天理を守っているのです。それらは誰にも破られないことです。修煉者には師父がおられるので、トラブルや病のような症状、迫害などに遭っても、例えそれがどれほど常人の理とかけ離れていても、その出来事にはきっと深い原因や理由が存在しているはずです。例えば、自分の精進を促すためであったり、業力を消すためであったり、借りを返すためであったりなど、魔難が来たときは、内に向けて自分を探さなければなりません。きっとまだ取り除かれていない人心や執着心があるはずなので、法理に基づいて自分を正していけば、妨害も自ずとなくなるのです。

 法を得て22年ほど経ちましたが、振り返ってみれば、「心を修める」ことの法理について、これまで中々深い面まで悟ることができませんでした。大法に従って行ない、常人の中の良い人になろうと必死に努めてきたものの、心を修めることを理解しておらず、いつも上辺だけの言動でしたので、もちろん、心性が向上するはずもなく、それでも、私自身は修煉に努めていると思い込んでいました。

 慈悲なる師父は夫の母の入院をきっかけに、修煉とは内に向けて心を修め、内側から変えていくということを教えてくださいました。あの頃、夫の母が入院して、子供やその嫁が何人もいる中で、私と主人の兄の2人だけでシフト制にして、母の面倒を見ていました。修煉者ですので、食事はもちろんのことトイレやシャワーに至るまで、身の回りの世話をできる限り行なってきました。周りの患者たちは私が母の実の娘だと思い、時々、褒めてくれたり、羨ましがられたりされて心地良いものでした。

 ある晩、母の具合が悪くなり、常にそばで見守っていなければならず、私は一晩中世話をして、まったく寝れませんでした。ようやく夜が明けて一息つこうと廊下に出た途端に、疲労感や文句、苛立ち、悔しさなどの様々な感情が一気に溢れ出てきて、それはもう、とても苦しい思いでした。その時に、目の先に「内心一科」という赤い文字が目に入り、思わず衝撃を受けました。いつも見ている看板なのに、なぜ、今日に限ってこれほど目立ったのでしょうか。あ、この「内心一科」はまさに「自分の心を見ろ」ということではないかと気づきました。

 内に向けて自分を探したところ、嫉妬心や怨恨心、悔しい思いと苛立ちなどの魔性の現れに、自分でも恥ずかしく思いました。これらの情緒の背後には利己心が隠れているのです。表面上やるべきことは一応はやっていましたが、やはり実の母親ではないので、丁寧さが足りませんでした。このような人を区別する心理は本当に恐ろしいものです! これほど頑張って世話しているにもかかわらず、夫の母がいつもため息をついたり、愚痴をこぼしたり、悲しげな顔をしたりする原因がやっとわかりました。人は心で通じ合っていたのです。

 内に向けて自分を探しているうちに、慈悲の心が生まれ、夫の母の哀れさと無力さを感じとることができたので、涙があふれてきました。借りは返さなければならないという法理により、母への不満や苛立ちなどの心のわだかまりがなくなりました。そして、普段接する母への冷淡さや無関心な態度を反省し、これからは夫の母の晩年を楽しんでもらえるように、実の母親と同じように真心を込めてお世話をしていくことを心の中で秘かに決めました。

 その瞬間に、あれこれと思っていた全ての煩悩や疲労感が一気に消え去り、身も心もすっきりしました。これこそ、修煉者にあるべき心境ではないでしょうか!

 内心から変わったのですぐに母の所に戻り、「水を飲みますか」と様子を心配したところ、母も楽になったのか、「早く横になって少し休みなさい。一晩中ずっと起きていたのでしょう。私はもう大丈夫よ」と、まるで実の子のように私のことを心配してくれました。内に向けて自分を探すことは、これほど素晴らしいものだったのですね!!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/9/16/393377.html)
 
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