振り返るに忍びない日々の中で(上篇2)
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文/李文明

 【明慧日本2024年3月17日】(前文に続く)

 (2) 「7.20」に連行され、留置場で迫害される

 1999年7月21日午前3時、工場で当直をしていた私は、蘭州市七里河区公安支局の十数人によって連行されました。彼らは当直室と自宅を捜索し、私の家から大量の法輪功の書籍と資料を押収し、私を下西園仙客来ホテルの1階の角部屋に監禁しました。当時、蘭州市の学習者・袁江さん、葛俊英さん、彭健さん、彭波さん、于進芳さん、汪章秀さん、郗麗琳さん、文仕学さん、曹軍さん、史暁泉さん、華金川さんなど二十数人が連行され、それぞれ明珠ホテル、隴保山荘などに拘束されました。公安局は二つの機動隊チームと市公安局一課、区公安局一課の警官を、昼夜を問わず警備に配置しました。

 20日後、彼らは袁江さん(迫害により2001年11月に死亡、29歳)、葛俊英さん、彭健さん、彭波さん、于進芳さん、汪章秀さんと私を含む7人を人民ホテルに拘禁しました。彼らはホテルのフロア全体を占拠し、機動隊と市公安局一課の警官を派遣して昼夜を問わず、私たちに「反省」、「転向」するよう強制し、半年間続けました。その後、強制措置が変更され、各自の職場の関係者が連れ帰り、引き続き住居監視を行いました。

 毎週水曜日の午後、私たちはまた「学習」に参加するために市公安局に行くことを義務付けられました。旧正月が近づいて、監視が緩和されたので、私は蘭州から北京行きの122列車に乗り、陳情に行きました。北京の学習者は私を昌平区の借家に連れて行ってくれました。毎日、全国から多くの学習者がここに来て、「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍は素晴らしい」、「法輪大法は正法である」などの横断幕を持ち、天安門広場に行って掲げました。

 私はここで初めて、不当拘禁中に犯した過ちを正し、明慧ネットで厳粛な声明を発表しました。 それから2、3日、横断幕やのぼりを書いていました。その後、この借家が警官に見つかり、北京の回龍観派出所の警官が借家を包囲し、続々とやってきた学習者たち、40~50人ほどを全員連行しました。警官は私たちを回龍観派出所に連行し、私たち男性学習者を地面に打ち倒し、革靴を履いた足で顔や頭、身体を蹴りまくり、その邪悪さはとても猛烈でした。

 その時北京の冬は、空は灰色で靄が太陽を覆い、地面には黒い粉塵が厚く積もり、私たちの頭、顔、体はすべて黒く覆われました。私たちは上半身を裸にされ、氷を抱えるように命じられましたが、誰も恐れませんでした。恐れなかっただけでなく、痛みも感じませんでした。奇跡的に、氷を抱えた腹部は冷たく感じることなく、気持ちよく感じました。その時、私たちが耐えたのは表面上の残酷さだけで、すべて耐えてくださったのは師父だと気づき、思わず涙が溢れました。部屋に閉じ込められている女性の学習者は部屋から抜け出し、私たちを応援してくれたので、警官らは私たちへのひどい暴力をやめました。その後、全員が断食して迫害に抗議し、「論語」を暗唱しました。

 翌日からは次々と不当な尋問が行われ、名前や住所を明かしたくない学習者は北京の留置場に拘禁されました。私は北京に駐在する蘭州事務所に連れて行かれましたが、事務所の責任者は私が逃げ出すことを恐れ、私をソファーに手錠をかけ、翌日、迎えに来た蘭州市公安局の隊長と蘭州機関車工場の保安部長に引き渡しました。

 その日は旧正月の大晦日であったため、よその地域の者は北京に滞在できないと規定しており、私は夜の飛行機で連れ戻され、蘭州中川空港に到着しました。飛行機を降りるとすぐに、私は西果園蘭留置場に直接連れて行かれました。夜の12時過ぎ、空は真っ暗で、留置場の明かりが数カ所だけ光っていました。

 西果園蘭留置場は山の上に建てられているため、監房は低地にあります。そこへは下り坂があり、下りた坂の突き当りには鉄の門があり、門の上には射撃用の銃穴のある監視塔があります。 周囲の環境は不気味で恐ろしく、鉄の扉はきしむ音を立てて開き、刑務所の中庭が見えます。建物は洞窟風の石でできています。刑務所の監房には通常 20 人から 30 人、場合によっては 40 人を超える人が収容されており、飲食やすべてがその中で解決し、過密状態で、空気が息苦しく、監房によっては、ワンフロア式のベッドしかない場合もあり、ベッドの下に頭と足を逆さまにして横たわらなければならない人もいます。夜中に起きてトイレを済ませると、もはや横になる場所を見つけることができません。留置場内のいたるところでネズミやシラミが見られ、疥癬になる人もおり、極めて劣悪な環境のため、薬もなく、服を脱いで日光にさらして殺菌するしかありません。皮膚が腐り貫通性の疥癬になる人もいて、骨まで見えました。

 ここでは毎日強制労働に参加させられ、ノルマを完了できなければ、残業しなければなりません。衛生状況が非常に悪いため、眠い時は手で目をこすることによって、失明した人もいました。種を剥く作業では、歯が欠けている人や、爪が剥がれている人は仕事のノルマを達成できなければ殴られたり、体罰を受けたり、打ち殺された事件はしばしばあり、すべてが「正常死」として扱われました。人を殴る技だけでも、様々な「料理」と呼ばれるものが108種類あり、それぞれが一種の殴り技なのです。

 留置場から出たとき、妻の肖彦紅が1年間の労働教養を言い渡され、平安台労働教養所に拘禁されていると聞きました。平安台労働教養所に行き、面会の時に妻の顔は黒く、体型が変わって太っているように見えました。妻を見た瞬間、私は本当に複雑な気持ちになりました。こうして、短い面会は終わりました。

 (3) 不当な労働教養、拷問

 2000年5月のある日、私は学習者の姚宝栄さんが安寧区公安局の警官に拷問されて死亡したと聞き、すぐに学習者・張菊秀さんの家に駆け付けました。数人の学習者がすでにそこにいました。姚宝栄さんの両親が、姚宝栄さんに生前の友人たちと最後に会わせたいとのことでしたので、私は遺体安置所の前に姚宝栄さんを偲ぶ横断幕を掲げて追悼式を行うよう提案しました。

 「ユダ」の裏切りにより、私は再び七里河公安局の警官・習明傑らに連行され、48時間後、西果園蘭留置場に移送されて21日間拘束されました。期間中、私は断食して迫害に抗議し、蘭州市政法委書記との面談を要求しました。断食のため、私は倒れそうになり、一日中ベッドに座って下りることができず、留置場の責任者が市公安局に何度も電話して解決法を尋ねました。その結果、私は1年6カ月の労働教養(拘束された23日間は含まない)を言い渡されました。

 私は極度に衰弱して、平安台労働教養所に連れて行かれる途中、気絶寸前でした。その時、若い警官が私の耳のそばで「この法輪功への弾圧は3年続かないでしょう」と言いました。私はこの若い警官のことをとてもうれしく思いました。彼は私が警察内で出会った最初の理解者でした。労働教養所に到着すると、私は 3 大隊の第 2 中隊に配属されました。

 私は 3 大隊の第 2 中隊にいた 5 カ月間、迫害に抗議するため、何度も断食しました。煉功する時、監視役は私が煉功できないように、私を押したり身体を動かしたりしました。その後、私は夜中に当番警官の窓の下で煉功をしました。そうすることで、監視役は手を出さなくなりますが、当番の警官に通報して強制的に私を監房まで上げました。私が断食する期間中、中隊長・張全興は7人の麻薬中毒者を配置して、私の一挙手一投足を監視させました。

 秋になると下痢が止まらなくなり、一晩に10回以上、日中は7、8回トイレに行くようになりました。私は明らかに体重が減りましたが、精神状態は相変わらず元気で、毎日台車を引っ張って山を登り作業していました。その後、指導員の段継平がこのことを知り、受刑者らに私を押し倒し、鉄のスプーンで歯をこじ開け、強制的に薬を流し込むよう命じました。その結果、歯が破損し、薬は全部こぼれました。この迫害は40日以上続きました。

 またある時は、私が寝ている間に、師父の『洪吟』が印刷してある小冊子が彼らに盗まれました。これは私が毎日読んで暗記しなければならなかったものでした。私は再び断食を10日以上続けました。労働教養所の所長がやって来て、私を見て何も言わずに立ち去りました。

 ある日、荷物検査をする受刑者が警官の前で、私のカシミヤのセーターを奪いました。そのセーターは、義父と義母が私と妻を見舞いに来た時、新疆から買ってきてくれたものです。この件を管理部の戴興隆主任に報告しましたが、無視されました。

 5大隊に配属された後、彼らはよく学習者に最も汚くて最も疲れる仕事を割り当てました。私たちはトイレから大便を畑に運び、土と混ぜて四角く積み上げて発酵させますが、昼の食事の時間になっても、糞便で汚れている手を洗うための水は与えてくれませんでした。私が躊躇すると、学習者の宋延昭さんは、「このようなものはそれほど汚くない、一部の人の心と比べて遥かに及ばないと思います」と言いました。その言葉を聞いて、私はすぐに汚れた手で蒸しパンを取り、食べました。

 またある日、私たちはバケツで水を運んで畑に水をやりました。監視役の受刑者は木の棒を持って、「走って作業せよ」と命じましたが、私は心の中で「邪悪な指示には従わない」と思いながら、ゆっくりと水を運びました。彼に殴られたので、彼と論理しました。彼は再び私を殴ろうとはしませんでした。またある日、教養所の「五つの規則」を暗記するよう強制された時、誰も暗記しませんでした。陸保良さんは呼ばれた時、「法輪功学習者はそれを暗記しません」と管理課長の戴興隆にはっきり言いました。

 (続く)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/3/1/441663.html)
 
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