振り返るに忍びない日々の中で(上篇3)
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文/李文明

 【明慧日本2024年3月18日】(前文に続く)

 2001年1月23日午後7時、教養所は「重要なニュースがある。一緒にテレビを見るように」と告げました。私は監視役2人に強制的に最前列に連れて行かれ、地面に座らされました。法輪功に対するデマと中傷を広めていることに違いないと分かったので、私は目を閉じました。思いがけず、警官は受刑者らに「目をえぐり出すように」と命令し、私は彼らと口論になり、身体の衝突もありました。その時、「天安門焼身自殺」事件がテレビで放映されました。学習者の申世勇さんはすぐに立ち上がり、「自殺は罪です。法輪大法は殺人と自殺は許されないと学習者に要求しており、『焼身自殺者』」は学習者ではありません」と即座に明言しました。申世勇さんは事務所に連れて行かれ、極細の縄で1時間以上縛り付けられました。その時、学習者の柴強さんも立ち上がって彼らと論じました。

 偽りの「天安門焼身自殺」事件が放送された後、平安台労働教養所は学習者をさらに残酷に迫害しました。大隊長・馬武の指図のもと、受刑者は金吉林さんの手を両足の間に挟んで手錠をかけ、立ったり歩いたりできないようにしました。彼らは王茂林さんの両手を後ろ手に手錠をかけ、物干しワイヤーに吊るし、拳で王茂林さんの腹部を殴った結果、王茂林さんを失禁させました。

 60代の銭世光さんはひどく殴られて、顔が変形し、何度も病院へ運ばれました。銭世光さんは、人が多い場所を通り過ぎるたびに「法輪大法は素晴らしい!」と叫び、その声が空に響き渡りました。銭世光さんはかつて「どこにいても、私は人々に『法輪大法は素晴らしい!』と伝えます」と話したことがあります。

 銭世光さんは外にいるとき、法輪功の資料と「法輪大法は素晴らしい」というスタンプを常に持っていました。どこに行っても法輪功の良さを伝え、どこに行ってもスタンプを押しました。龔家湾洗脳班に連行された後、銭世光さんは話すことができなくなり、寝たきりになったときも、木の枝で作った杖でベッドの枠をたたき、他の学習者たちに正念を発するよう注意を促しました。その後、龔家湾洗脳班で長期にわたる迫害により、銭世光さんは亡くなりました。

 宋延昭さんは殴られて顔が変形し、肋骨5本が折れましたが、毎日4、5人の病人を乗せた人力車を引っ張って、畑に出勤するように要求されました。野菜を栽培する温室に到着すると、警官は2人の受刑者に、宋延昭さんを吊し上げ激しく殴るよう指示しました。私たちが宋延昭さんの肋骨が折れていることを話し、病院に行くようにと求めた時、警官の康士成は宋延昭さんに「肋骨が折れていると聞いた。俺たちが治療してあげる」と言い、宋延昭さんを地面に倒し、骨折した部位を手で圧迫し、宋延昭さんは苦痛の叫び声を上げました。

 学習者の張露禅さんは彼らに「骨折した人にどうしてそんなことができるのですか?」と問い詰めました。しかし、黄という警官は嘲笑しながら、「張露禅、お前が大学に行ったことは無駄になったね、マッサージが患者に良いことを知らないのか?」と言いました。宋延昭さん は法輪功への信念を貫き、迫害され亡くなったときも、両足を組んで坐禅しているままでした。

 宋延昭さんが亡くなった後、迫害に関与した警官らは、職を解かれたり、転落して足を骨折したりするなど、それぞれ悪の報いに遭いました。

 白銀市の青年トップ10に選ばれた馬君彦さんも、ここで不当に拘禁されました(彼の妻は女子監房)。馬君彦さんはかつて白銀市電力局の指導チームの候補者であり、謙虚で誠実な性格を持ち、人望も厚いのです。昔の電力局長が何度も平安台教養所を訪ねて馬君彦さんと面会しました。馬君彦さんの法輪功に対する信念は揺るぎませんでした。

 私は受刑者にトイレに引きずり込まれ、激しく殴られた後、数人に腕を背中と平行に引っ張られ、胸が引き裂かれるような思いをしました。そして彼らは、私の腕に手錠をかけ、滑り落ちないように、布でしっかりと巻き付けられました。私をワイヤーに吊し上げた後、受刑者は手錠を引っ張って走り始めました。私のつま先が地面から離れそうになり、骨までの痛みが走り、頭から汗が玉のように滲み出てきました。40分以上も拷問された後、下ろされたとき、しばらくしてようやく意識を取り戻しました。その後の何日もの間、手首と腕がしびれていました。

 その後、面会に来た学習者から、「明慧編集部が、学習者に正念を発して邪悪な要素を根絶する知らせを掲載しました」と聞きました。私は張峰さんと話し合い、「必ず座って正念を発するように」と他の学習者にも連絡しました。朝6時に、すべての学習者が積極的に正念を発していたのを覚えています。この動きは教養所を再び震撼させましたが、彼らはあえて行動を起こさなかったのです。

 その時、私はみんなの正念が高まっているのを見て、集団煉功を提案しました。それで、朝の5時から始めました。最初の朝、集団煉功したとき、警官らは阻止しませんでしたが、夕方、新任の隊長・鄭継光が私を呼び出し、「公の場で煉功しない限り、何の処罰もしない」と言いました。私は「それはありえないことです。私は煉功するという理由でここに拘禁されました。こんな良い功法なのに、なぜ煉ってはいけないのでしょうか? 私は続けます」と伝えました。彼らは私を砂利が積まれた小さな中庭に閉じ込め、4人の監視役に囲まれ、2人の警官を当番に割り当てました。私は断食して抗議しました。

 その後、私たちは何度も迫害に抗議し、強制労働に参加せず、報告せず、一切の処罰にも従いませんでした。ある日、隊長・鄭継光は、座談会を開き、学習者全員と一部の警官に参加するよう告げました。

 座談会では、学習者の張栄たちは学習者がどのように迫害され、宋延昭さんがどのように迫害されて死亡したかを訴えました。そして、鄭継光は学習者への暴行や虐待は任期中に起こらないことを保証しました。それ以来、私たちは目立たないように師父の経文を渡したりして、法を学び、法を暗記し、自由に交流することができました。経文を預けてくれる受刑者もいました。

 2001 年 12 月、私は平安台労働教養所から解放されましたが、蘭州機関車工場の保安課に連れて行かれ、依然として監視下に置かれ、自由はありませんでした。

 その時、林家荘の家が取り壊されると聞いたので、家に帰って状況を見たいと求めましたが、許可されませんでした。私が工場内で監禁されていることを知った妻も、工場の責任者に電話しました。妻の介入と私自身の抗議の後、彼らは私を七里河区の華林坪洗脳班に拘禁しました。そこは甘粛省中医リハビリセンターで、4階は精神病患者専用です。窓と廊下全体が鉄格子で溶接されており、全体のレイアウトは刑務所と同じです。

 そこで、迫害に抗議するために断食を始めましたが、逃げ出す可能性があると分かったので、断食を中止し、毎日窓から地形を観察していました。体力が回復してからは、2002年の旧正月の間、入院患者も少なく、スタッフたちは自宅で新年を祝うのに忙しくしているのを見て、師父のご加護のもと、窓に溶接された鉄格子を折り、4階から飛び降りて、無事脱出しました。 私が逃げ出した後、蘭州市公安局は5万元の懸賞金をかけて、私を捕まえようとしました。

 (続く)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/3/1/441663.html)
 
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