「偶然なことはない」の法理から考えてみる
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2018年4月19日】師父は私達に「偶然なことはない」[1]と説かれました。ちょっとそれを聞くと、意味が分かったような気がしますが、しかし、実際にやってみると、自分はそれほど理解しておらず、「事々対照し、 做すところ到るは是れ修なり」[2]のようにやり遂げることが難しく、何かに逢えば、やはりすぐに偶然だと考えてしまいます。

 例えば、数年前のことですが、同修Aさんには病業の状態が現れ、彼女は心性が所定の位置に達しておらず、毎日こっそり点滴を受けていると聞きました。そこで、私はAさんを見舞いに行こうと考えました。しかし、Aさんの姑はとても怖い人で、しかも、大法に反対していて、それを思うと、少し躊躇しました。実は、私の家族もほぼ同じ状況で、そのため、いろんなことに関しては、彼らに知られたくありませんでした。私の場合、家族がいない時に出かければいいのですが、しかし、Aさんの家の状況はどうなっているだろうか? 「姑さんはちょうどそこにいるだろうか? 医者はちょうど点滴を打っているのではないか? たまたま来客中ではないか?」などと様々な場面を想像して、とにかく人に会いたくないと思いました。あれやこれやといろいろ考えて、いつ行けば良いのかなかなか決まりませんでした。やはり、Aさんの家の状況をただ偶然なことだと思い込み、予測不可能だと理解し、師父がそばにおられ、師父が按排して下さっていることを思いつきませんでした。私は考えれば考えるほど良い案が浮かばず、頭が痛くなりました。

 ところが開き直れば、「それは自分のひどい執着心ではないか? 取り除くべき恐れる心ではないか? 何を恐れているのだろうか? 当時は北京に大法を実証しにも行けたのに、この程度の事でどうしてクヨクヨするのだろうか? やはり行こう! 姑さんがそこにいても、医者が点滴を打っていても、そんなことは構わない。同修を正々堂々と見舞いに行くことは、筋が通っている」と思い直しました。

 朝食を食べてから行きました。Aさんの家の玄関先には人がいっぱいでした。ちょうど機械を修理しているところで、近所の人が大勢集まっていました。それでも、私は行かなければいけません! 私が入口に向かって行くと、人々は皆機械の修理に気をとられ、誰も私のことに気づきませんでした。Aさんの家に入ると、姑さんはちょうど庭にいて、私を見るとすぐに表情を曇らせとても警戒した様子でした。私は「あら、お姉さん、どうしたのですか? 私のことを覚えていませんか?」と声をかけました。私の声を聞くと、Aさんはすぐに部屋から出て来て、「ようこそ、どうぞお入りください」と挨拶してくれました。彼女は私を待ち望んでいました。部屋に入ると、今日は点滴も打っておらず、医者もおらず、そのかわりに、Aさんのお母さん(同修)が来ていました。本当に奇遇でした。私達は深く交流し、幾つかの問題も解決して、みな喜びました。心性が所定の位置に達していれば、師父は何もかも按排してくださいます。本当に「物事の善し悪しは人間の一念によるものである」[3]、その通りでした。物事を偶然なことだと思うのは人間の観念です。人間の観念を放下しなければ、同じような問題がこれから先ずっと付きまとって来るでしょう。

 数日前、ある団地に資料を配りに行きました。あそこの警備員はいつもあれこれ質問をするので、少し苦手でした。「警備員にまた止められたらどうしよう? どう対応すれば良いだろうか」などと雑念が浮かびました。しかし、考え直して見れば、「私は法を実証しているので法に合致していれば、師父はきっとしっかり按排してくださっており、ビクビクする必要はない。何も考えずに行けば、きっと師父のおっしゃる通りになる」と凛(りん・媚びたりへつらったりすることがない)として行くことにしました。

 自転車に乗って団地の入口を入ると、後ろから警備員が大声で「ほら、そこのあなた、何者か?」と怒鳴り声がしました。あの言い方はまるで泥棒に対する態度のようで、非常に失礼でした。「これは大法を実証する人に対する態度ではない」、「他に出入りする人もいるから、私に言っているわけではい」と思い、私は警備員の声を気にせず、正念を発しながらそのまま入口を通過しました。そして団地に入ってから、順調に資料を配りました。

 この数日間、状態がよくなく、頭がクラクラして昨日の火曜日を月曜と間違え、大事な事に支障をきたしました。数日前、同修の家で大法の本を警官に押収され、公安局から大法の本を取り戻そうとしました。しかし、今の状態が良くないから、本を取り戻しに行けば下手をすると、逆にトラブルに巻き込まれるのではないか? しかし、そうは言っても何日も経っているし、時間が長びけば長びくほど良くないと思いました。また、偶然なことだと考えてしまいました。「そんなことはありえない。私は師父に管理されている。これは法を実証することで、状態が良くないからといって行くのをやめていいだろうか? もう時間がないし、これ以上ズルズル先に伸ばしてはいけない! 師父が私を管理してくださっているので、考え過ぎるのは人間の観念だ。大法の本を取り戻そうとするなら行けばいいことだ。師父は私のそばにおられる。師父は『困難を大きく見れば見るほど、問題が難しくなり、相は心から生じるのですから、問題はますます厄介になります』[4]と説かれている」

 公安局の国保大隊(法輪功迫害の実行機関)に入って見ると、そこに当番に当たっている若い警官がいました。彼は真相を知らず、私が大法の本を取り戻しに来たことにとてもびっくりして、「お前はまだ煉功しているのか?」、「本を押収するだけの問題ではなく、お前を拘禁すべきかどうかのこれは問題なんだぞ」と脅かしました。私は彼に真相を伝えて、最近発表された国の新聞出版総署第五十号令のことを話し、そして、「パソコンで調べれば分かりますよ」と言いました。彼は黙って何も言わなくなりました。そして、私はそこの知人を探して真相を話しました。結局、大法の本を管理する警察官が留守だったため、本を返してもらうことはできず、次回、また来ることになりました。しかし、真相を伝えることもできたし、上手に話せたとは言えなくても、一応トラブルにもならずに済みました。

 「偶然なことはない」、物事を偶然だと考えるのは常人の観念で、しかも、気付かれにくい観念です。修煉者が歩む道はすべて師父によって按排されており、その人の心性の高さによって按排されています。師父は常に私達のそばにおられます。心が正しければ何もかもすべが順調に運び、「弟子正念足りれば 師は回天の力有り」[5]という結果になります。一方、心が法から離れるとトラブルが起き、「天地をば法を正す道を阻み難し  只、弟子の人心により遮る」[6]ということになってしまうのです。どうなるか、それは「自分の心」しだいです。「法と師を信じる度合い」しだいで決まってきます。

 個人の体得ですので、適切ではないところは、慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の説法:『ヨーロッパ法会での説法』
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「着実に修める」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」
 [5] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「師徒の恩」
 [6] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「煩わし」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/3/23/363242.html)
 
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