正念を保ち 法理に基づいて向上する
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2018年3月16日】私は2001年、中国共産党が天地を覆い尽くさんばかりに大法を中傷する最中に大法に触れました。当時なんの概念もなく、ただ同修に勧められて大法書籍を読み、同修が煉功している後ろで真似をしただけです。多分8日か、10日ぐらいやりました。その後、共産党に迫害され、余儀なく他所に移りました。経済的なことが原因で居場所が定まらず、また、あまり学法ができていなかったため、大法とすれ違い、あっというまに7年が過ぎました。

 2008年ごろ、私は再び大法の修煉を始めました。いままでずっと独自に修煉していました。業力が大きく、執着心も多いため、その間しっかり修煉できない状態もありましたが、私は終始、最後まで修め、師父について家に帰るという確固たる信念は変わりませんでした。ですから、毎回執着心を取り除く時、とても困難でしたが、よたよたしながらも歩んできました。しっかり修めていなくても、師父からの絶えまない教えの下で、三つのことをすべてやってきました。だから師父は私のような弟子でも落伍しないようにして下さったのかもしれません。

 多分私の根基が原因かもしれませんが、以前は自分なりにまだよくできていたと思いますが、師父の法を正すことが進展するにつれ、私は表面上、常人の考えに至り、良くないものが湧いてきて、各種の観念、業力と生々世々にできた借り、また今生で後天的に受けた汚染、それに学法が足りず、正念が足りず、以前自分なりに良かったと思う修煉状態がなくなり、各種の魔難が到来し、自分は心性が向上しないことばかりであることを知りました。

 私は自分のやっていることが何もかも正しくないと感じましたが、その頃、うちに向けて探すことを知りませんでした。当時、明慧ネットを読んでおらず、集団学法や同修と切磋琢磨する環境もなかったため、結果的に必要でない損失を蒙りました。その後、偶然にも明慧ネットに発表された同修の文章を読むことができ、やっと当時様々なことにぶつかった時、自分のその心を探すべきだったと分かってきました。師父は「ここまで、煉功しても功が伸びない二つの原因についてお話ししました。高次元の法が分からないために修煉ができないことと、内へ向かって修めず、心性を修煉しないので、功が伸びないのです。この二つが原因です」[1]と説かれました。そして、トラブルに遭遇する度に私もうちに向けて探してみました。一つの心が見つかると発正念をしてそれを取り除きました。しかし、正しく見つけてないような気もしました。そして、またたくさんの人心を見つけました。なぜなら、良くない心はみな繋がっているからです。こうして絶えず発正念をしましたが、取り除く速度が非常に遅く、時にはこの心をまだ取り除いていないのに、もう一つの心が出てきて、私はボロボロになり、元気を失い、ずっと私は師父にとって要らない存在だと思いました。トラブルに遭遇すると逃げまわり、自分を封じこめ、考えれば考えるほど消極的になり、耐えてきました。修煉して向上できなかったばかりか、却って心性がひどく落ちてしまいました。私は苦悩し、闘いましたが、毎日本を読むだけで、心を修めていなかったため、いくら読んでもなんの向上もありませんでした。

 私は非常に焦りました。なぜなら正法は最後の段階に差しかかっており、もしよく修煉できなければ、本当に非常に恐ろしいからです。今の状態でどうなるか考える勇気もありませんでした。多分師父は意気地がない弟子にまだ修煉したい心が少しあるのを見られたのだと思います。それは突然ある日、師父の説かれた法を一段落思い出しました。「少なからずに休み自省して正念を添え、不足を明らかに分析して再び精進す」[2]。私は本当に心を静めることができ、自分が現在どんな状態なのか、まだ修めきれていないどんな心があるのか、どうすべきか、またトラブルに遭遇したらどうすべきかを考えました。すると心のなかが明るくなりました。しかしやはりトラブルに遭遇するとうまくいきませんでした。表面上は平静であっても、心のなかでは乗り越えられず、何かにぶつかるとマイナスの考えが走り出し、魔性の一面に動かされました。この時、頭のなかにまた師父のお言葉、「人間はまるで一つの容器のようなもので、何かを入れればそれになるのです」[3]が浮かんできました。師父はまた「返本帰真を願い、上の次元へ修煉しようとするには、この基準に従って行動しなければなりません」[1]とも説かれました。

 私はやっと分かってきました。もし私達が如何なる人、いかなる事に遭遇しても、師父と法を信じると同時に真・善・忍をもって量れば、その結果は異なり、それこそ本当の自分の思惟です。再び何かにぶつかると容易に乗り越えられるようになりました。自分の容量が大きくなっていることにも気づきました。いま私は軽やかになり、何かに遭遇すると素早く乗り越えることができます。

 例えば、身体に病業の状態が現れた時、私は師父の法「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」[4]を思い出しました。この説法をずっと読み、時には1時間以上読みました。また、真相を伝える時、様々な人心が出てきますが、すべてにおいて真・善・忍を出発点として問題を考えれば、その人心は自ずと解体されます。例えば、相手が私を怒らせた時、私は師父の説法「人とは何か、情慾身に満つ 神とは何か、人心存する無し 佛とは何か、善徳巨く在り 道とは何か、清靜として真人」[5]を思い出します。また師父の経文「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」[6]をも思い出します。こう考えると、非常に乗り越え易くなり、現在になってやっといかに修めるかを知りました。

 私は心から師父の慈悲なる済度に感謝します。師父は意気地のない弟子を見放されることなく、絶えず悟らせてくださいました。同時に明慧ネットに発表された同修の文章にも感謝します。たくさん恩恵を受けました。師父は「明慧は有縁の者を済度し 新生は脳中の悪を去る可し」[7]と説かれました。同時にいま入ったばかりの学法グループにも感謝します。学法グループは私に同修との差を見せてくれ、更に努力し、精進するように悟らせてくれました。師父の要求からはまだほど遠く離れていますが、私は今からすべての人心を放下し、最後の正法の路をしっかり歩む自信があります。

 師父は「一つの執着があれば、それは一つの鍵、一つの関門、あなたを出発させない一本の綱のようですので、それを断ち切らなければなりません」[8]と説かれました。心を放下し、まだ息があり、正念がある限り、大法のなかで修煉します。例えば、ほかを保つことができなくでも、少なくとも正念だけは保たなければなりません。師父は「『法を正す時期の大法弟子』という称号に相応しくならなければなりません。それは宇宙に二度とないことであり、天地開闢以来も今回だけなのです。宇宙の天地開闢以来今回だけなのです」[9]と説かれました。

 以前、よく出来ていても、出来ていなくても、ため息ですべてを終わらせるしかありません。私はため息のなかに沈んではいけません。旧勢力は人類を壊滅させようとし、師父は人類を救おうとしておられます。正法時期はまだ終わっておらず、まだ機会があります。幾千万年の間待ち望んでいる、自分自身の背後にあるすべての生命のため、更に多くの救い済度を必要とする生命のため、今後の正法修煉の道をしっかり歩まなければなりません。これは善悪一念という簡単なものではなく、正と邪の闘いです。師父、ご加持をお願い致します。

 明慧ネットは大法弟子の故郷です。今日この文章を書き出したのは、私と同じ体験がある同修と互いに切磋琢磨し、私のこの段階の体験をみなさんと分かち合うためです。私がこの段階で旧勢力と戦った体験、まだたくさんの執着心があり、人心が強い同修がなるべく速く向上することの助けになればと思います。正法の最後の時期に、同修と共に精進し、着実に修め、師父と大法を信じ、最後の道をしっかり歩みたいと思います。 

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「理智醒覚」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法の中に溶け込む」
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」
 [5] 李洪志師父の詩:『洪吟』「人と覚者の分別」
 [6] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
 [7] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「法網」
 [8] 李洪志師父の著作:『ニュージーランド法会での説法』
 [9] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年ボストン法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/2/27/362300.html)
 
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