振り返るに忍びない日々の中で(下篇2)
■ 印刷版
 

文/李文明

 【明慧日本2024年3月19日】(前文に続く)

 3、独房に閉じ込められる

 私が蘭州刑務所にいた18年間、他の学習者と接触できないようにするため、ほとんどの時間、彼らは私を独房に閉じ込めました。2006年、さらに多くの学習者が第3監獄区から移送され、警官は私を第10監獄区に移し、そこで再び私を迫害し始めました。

 蘭州刑務所には邪悪な警官が10人いて、そのうちの2人は第10監獄区に所属しています。教官・戴学義と大隊長・高振東です。特に戴学義は悪い考えが無限にあります。覚えているのは、2008年5月1日直後、戴学義が私を独房に入れ、殺人犯・牛明泉、強盗犯・谷寧寧ら4人に私を高い寝台の枠に吊し上げさせました。私は2週間ぶら下げられ、寝られず、全身がむくみ、両足と足首が黒紫色になり、感覚を失い、尿が赤く、半昏睡状態に陥りました。 ある時、小便をしたくなったとき、手錠を外されて降ろされましたが、私は真っ逆さまに倒れ、便器を倒し、地面に尿をこぼしてしまいました。

 またある日、殺人犯・牛明泉が私の腹部を拳で殴ったので、私は耐え難い痛みに襲われ、額から汗がにじみ出ました。 こうして私は、独房で3カ月間辛い日々を過ごしました。

 多くの学習者を迫害した戴学義は、間もなく悪報に遭い、肺癌を患い死亡しました。

 学習者・金吉林さんは、1回目蘭州刑務所に連行されたとき、第9監獄区の副教官・張海軍から激しい迫害を受けました。張海軍は受刑者らに、金吉林さんに熱湯をかけ、水ぶくれができた後、針で水ぶくれを刺し破り、塩を振りかけ、金吉林さんを眠らせないように指示しました。継続的な拷問で金吉林さんに耐え難い苦痛を与えました。2回目に蘭州刑務所に連行されたとき、金吉林さんは第7監獄区の隊長・魏周江に迫害されました。2021年8月、私が解放されたとき、金吉林さんは依然として独房に閉じ込められて迫害を受けていました。

 学習者・王有江さんは、第5監獄区で元大隊長・張海軍と、元教官・王国臣から激しい迫害を受け、脳卒中と片麻痺を患い、命を失いました。

 黒龍江省佳木斯市の学習者・孫照海さんは、第1監獄区で元大隊長・王国臣と、元教官・孔繁平によって継続的に迫害されました。警官は孫照海さんを独房に入れ「死人ベッド」に縛り付けました。彼らは孫照海さんの歯をほとんど打ち落としましたが、法輪功に対する孫照海さんの固い意志を打ち破ることはできませんでした。孫照海さんは半年以上断食、断水して迫害に抗議した結果、独房で1年近く拷問を加えた後、警官らは孫照海さんを揺るがすことができないと判断し、独房による迫害を解除しました。

 第2監獄区では白銀市平川区の学習者を拘禁しています。その学習者は70歳です。私が蘭州刑務所から出てきたとき、彼は独房に入れられ、4カ月以上睡眠を剥奪されました。国内外の関連機関や学習者たちがこのことに注目して下さるよう願っています。

 4、頭に黒いカバーを被せ「トラの椅子」に座らせる

 警官は時々問題を起こして学習者を弾圧し、迫害します。ある日、作業が終わった後、警官は私が指示に従わなかったという口実で私を呼び出し、単独訓練を受けるようにと言いました。私はそれを拒否し、動かないまま立っていました。

 そのとき、副教官・張玉泉がやって来て、私を再び独房に入れました。彼と隊長・王子卓は共謀して、私を二段ベッドの上の枠に手錠をかけ、夜でも眠らせませんでした。作業に出るとき、私は黒いカバーをかぶせられ、現場に着くと「トラの椅子」に縛り付けられました。同時に拘束ロープ(刑務所特製)、透明のテープ、担架、その他の拷問器具が用意されました。呉国華、張正挙らを含む4人に囲まれ、その勢いは猛烈なものでした。

 長期間の吊し上げにより、私は意識が朦朧とし、身体は浮腫んでいました。意識を失っている間、私は師父の教えを思い出しました。「大覚は苦を畏れず 意志は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」(『洪吟二』「正念正行」)

 私は「10数年の厳しい刑務所生活を乗り越えてきたのに、この最後の1年間を乗り越えることができないのだろうか? できる、必ず乗り越える」と考えました。この堅い一念と師父のご加護により、私はついに危険な迫害を乗り越えることができました。

 感染症流行中、刑務所の警官は交代制で2つのチームに分けられ、警察力は明らかに不足しています。下半期は急いで生産を増やし、1位を獲得し、年末にさらに多くの成果を上げて、ボーナスをもらいたいと考えていたので、これ以上の人員を無駄にしたくない思いもあり、彼らは私を下ろしました。

 その時、受刑者・冉鴻挙が、蘭州刑務所で病死しました。冉鴻挙の死は刑務所内の一連の犯罪事件を引き起こしました。王子卓は急いで「火を消したい」ということで、私への迫害を緩和し、私は独房から監房に戻りました。

 (続く)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/3/1/473726.html)
 
関連文章