法難から続く修煉状態
■ 印刷版
 

文/海外の大法弟子

 【明慧日本2025年2月18日】「中国での迫害は避けられない運命なのか? 」そして、「厳しい迫害を受けた人は英雄なのか?」について、長年にわたり書こうと思いながらも、なかなか書く勇気が持てませんでした。

 皆さん、考えてみてください。たとえば、善悪の戦いの中で、二つの軍が対峙しているとします。その中で、ある兵士が何度も敵に捕らえられ、拷問を受け、監禁され、釈放されてはまた捕らえられる――この繰り返しが続いているとしたらどうでしょうか? 確かに、これは業力によるものかもしれません。しかし、そもそもこの業力はどのようにして生じたのでしょうか? こうした人は、自分のいる軍隊にとって誇りとなる存在であり、仲間が称えるべき英雄なのでしょうか? ましてや、正法の修煉には「旧勢力を否定する」という法理があり、真にそれを実践できていれば、このような状況にはならないはずです。

 毎日、明慧ネットを開くと、最初に目に入るのは、中国各地の大法弟子が迫害を受けたというニュースです。多くの大法弟子が何度も迫害され続け、中には、この二十数年の法難の間に、合わせて20年近く不当に拘禁された同修もいます。まず、私たちは旧勢力が仕組んだこの迫害を決して認めません。なぜなら、この迫害はその動機から手段、そして最終的な結果に至るまで邪悪なものであり、師父の法を正すことを妨害し、大法弟子を滅ぼし、さらには大法弟子が衆生を救うことを阻むものだからです。

 しかし、別の視点から考えてみると、この迫害は非常に長期にわたり続き、影響は広範囲に及び、終盤に差し掛かった今でも海外にまで混乱を引き起こしています。すべての大法弟子は深く内省し、自らの修煉が追いついていないために、法難が26年も終わらず、さらには新たな波乱を生じさせているのではないかと真剣に考えるべきではないでしょうか?

 明慧ネットの報道を見ると、一部の学習者は色欲の心を断ち切れず、それを旧勢力に利用され、何度も酷い迫害を受けながらも、その執着を手放せていません。また、人前で目立ちたい、名声を得たいという心から、演説を通じて法を乱し、その業力によって迫害された人もいます。同修との間に生じた矛盾を法の視点から正しく認識できず、旧勢力に隙を突かれた人もいます。家族に対する恨みの心を持ち続け、それが迫害の口実となった人もいます。情への執着を断ち切れず、旧勢力に隙を突かれた人もいます――このような例は数えきれないほどあります。

 こうして招いた迫害は、本人にとって大きな苦しみとなるだけでなく、同修にも影響を及ぼし、地域全体の法の実証や衆生の救い済度の流れを妨げることにもなります。

 迫害を受けた後、一部の学習者は心を落ち着けて法を学び、自分の問題に気づいて正し、魔難を無駄にすることなく乗り越えました。しかし、残念なことに、多くの迫害を受けた学習者――特に、常人の生活に執着している人や、修煉の集団を利用して名声や人脈、利益を得ようとする人、また顕示心理が強い人の中には、迫害を受けたにもかかわらず、その経験を活かすことなく、今後より良く修めようとしませんでした。彼らは「内外の違い」を混同してしまっています。(内とは法に照らして迫害を招いた自身の問題を探し、不純な部分を取り除くこと。外とは社会に向けて迫害の実態を明らかにし、中共の弾圧を暴露すること)そのため、彼らの考えや行動からは、大法弟子としての使命感がまったく感じられません。

 さらに悪いことに、何度も迫害を受けた学習者の中には、修煉が向上しないどころか、かえって自らの受けた難を誇りとし、迫害を受けたことを他人にアピールするようになった人もいます。彼らは釈放後、学習者の間で自分を「英雄」のように持ち上げ、宣伝するのです。中には海外に出た後、中国国内でのような称賛を得られず、落ち込む人もいます。しかし、修煉の道に「英雄」は存在しません。迫害を受けるのは、修煉に大きな漏れがあったからであり、そこに誇るべきものは何もないのです。

 もちろん、「三つのこと」をしっかり行っている学習者の中にも、時折、不安定な状態に陥り、それが隙となって通報・逮捕されることがあります。しかし、そうした場合でも、彼らはすぐに自らを省みて執着を取り除き、短期間で無罪釈放されることが多いのです。また、最初は人心が強く、迫害に反対することを「常人の闘争」と誤解していた人もいます。しかし、後にその間違いに気づき、向上し、さらに師父のご加護を得ることで、迫害が解体されました。こうした同修は、迫害は誇るものでもなく、利用するものでもなく、それを修煉の過程での試練と捉えています。だからこそ、彼らは立ち上がった後の修煉の道をより大切にするのです。

 一方、行動を起こさず、修煉に対して消極的で何もしないままの学習者もいます。そうした人の中には、迫害を受けることなく平穏に過ごしている者も少なくありません。しかし、それも決して誇れることではありません。それは、すでに修煉をあまりしておらず、魔の試練もなく、威徳を築く機会を失っているからです。つまり、迫害を受けるまでもなく、自ら修煉の道から外れ、常人と変わらない生活に流されてしまっているのです。

 迫害を招いたよく見られる原因として、演説に執着し、法を乱した結果、大規模な迫害を招いた例は、明慧ネットに数多く記録されています。

 以前、明慧ネットで読んだ記事には、次のような話がありました。北京のある学習者は、迫害への反対や衆生済度のために大いに尽力していましたが、妻(常人)との長年の対立を解決できず、その結果、最終的に投獄されることになってしまいました。

 また、今日読んだ交流記事に、ある同修がこう書いていました。

 「数年前、私は別の同修と衆生済度の方法について意見が対立し、それが原因で地元の同修たちが二つの派閥に分かれてしまいました。その後まもなく、地元で大規模な逮捕が発生し、修煉が十分でなかった同修たちが重い刑罰を宣告されました。その結果、地元の衆生済度の環境に大きな損失をもたらしてしまったのです。今もなお、同修たちは冤罪によって獄中で迫害を受けています。これは血と涙の教訓です」

 旧勢力による迫害は、あらゆる方面に及んでいます。中国では、最も一般的な迫害の手段は投獄と拷問であり、旧勢力はこの残酷な手段を用いて、学習者の執着をあぶり出そうとしています。

 しかし、別の空間で邪悪な存在が大量に取り除かれたことにより、全体的に迫害の規模は縮小し、中国での逮捕者数は減少しました。しかし、その一方で、病気のような症状による苦しみを受け、最終的に命を落とす学習者が増えています。その本質は、やはり人心が取り除かれていないために、迫害を招いてしまっているのです。

 中には、長年にわたり大法のために尽力し、その恩恵によって寿命を延ばされた人もいます。しかし、最後の関門で気を緩め、修煉への意識が薄れ、問題に直面しても常人のような態度をとってしまったため、最終的に病業の形で迫害され、この世を去ることになったのです。

 海外においては、学習者同士のプロジェクトの協力関係、学習者間の対立、病業が、主な魔難の形として現れています。

 大法弟子は、それぞれ異なる天体・宇宙から来ており、生命の起源も先天的な特性も大きく異なります。さらに、転生を繰り返す中で人間社会で異なる役割を担い、今世の人生経験もそれぞれ異なります。こうした異なる背景を持つ生命が、大法のプロジェクトに協力して取り組む中で、問題に直面した際の反応や対処の仕方が異なるのは当然のことです。そのため、価値観の衝突や意見の対立が生じるのも避けられません。

 大法は、矛盾が生じたときこそ自らを見つめ直す機会だと教えています。矛盾が起こることは、自分の執着心を浮き彫りにする良い機会であり、それを活かして修煉を進めることが大切です。プロジェクトでの対立、理不尽な扱い、誤解なども、本質的には自分が過去世で積み重ねてきた業力や執着がもたらしたものです。表面的な原因にとらわれるのではなく、師父がそうした機会を利用され、私たちが向上できるよう導いてくださっているのかもしれません。

 たとえば、ミラレパの師父は、彼の業力を消すために、あえて「厳しい師匠」の役を演じました。約束を破るなどして弟子を試し、同時に彼の心性を向上させたのです。大法弟子同士の矛盾も、確かに旧勢力が隙を突いて引き起こしているのかもしれませんが、一方で、師父がそうした機会を利用し、当事者だけでなく周囲の学習者たちも共に向上できるように計っておられる可能性があります。旧勢力の目的が何であれ、私たちは大法弟子としてやるべきことをやる――それだけで十分なのです。このように、一つの試練が関係するすべての学習者に修煉の機会をもたらします。

 修煉の過程では、「今日は試練の日です。準備はいいですか? これが正解なので、暗記してそのまま書けば合格です」といった形で、分かりやすく示されることはありません。修煉とは、いつでもどこでも試されるものであり、どこに落とし穴があるか分かりません。その中で、常に法に基づいて問題を見つめ、修煉者としての基準で行動できるかどうか――それこそが修煉の本質であり、悟性が問われる部分なのです。

 海外には多くの高学歴の「エリート」大法弟子がいますが、修煉の悟性もそれに比例して高くなければならないのではないでしょうか?

 師父は『洪吟三』の中で「天地をば、法を正す道を阻み難し 只、弟子の人心により遮る」(「煩わし」)と説かれました。

 常人の観念を超えて、より高い次元から問題を見ることで、修煉の道をより成熟させることができるのです。

 法をよく学び、正念を発し、不純な思考や腐敗した物質を取り除きましょう。そうすることで、自分自身を、そしてより多くの同修を理性的な状態へと戻し、邪悪を自滅させることができます。少なくとも、自らや同修、師父に余計な困難をもたらすことは避けられるはずです。

 【修煉者同士の理性的な交流は、一般的に、その修煉者がその時点で修煉を通して得た認識に基づいたものであり、善意を持って交流し、互いに向上することを目指すものです】

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/2/9/490522.html
 
関連文章