明慧法会|着実な修煉の中で「相は心から生じる」を悟る
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年1月30日】常人の中で私は知識人で、典型的な実証科学の考え方を持っており、これが修煉での大きな障碍になりました。ここ1年間の修煉の中で、いくつかの関に遭い、周りの同修と一緒に法に則っとり正念で物事を考え、この方面において大きな突破がありました。特に「相は心から生じる」の法理に対してさらに深く悟ったので、それを書いて同修の皆さんと交流したいと思いますので、妥当でないところがありましたら、同修の皆さんの慈悲深いご指摘をお願いします。

 一、救われることを待ち続けている衆生と対立してはいけない

 私は、地方にある会社の地元での支店の責任者をしていましたが、最近、経営理念の方面で本社と意見が分かれました。ある日の午後、社長から電話があり、私を免職することを会社が決定した、と通知されました。支店については本社から人を派遣して接収管理し、私を免職とする具体的な理由は、次の日に支店で会って面談して話す、ということでした。

 この出来事は突然なことで、心の準備が何もできていませんでした。電話を置いた後に内に向けて探し、心の中では理由は明白で、近年の修煉状態に照らし合わせてみれば、この問題があらわてきたことは不思議ではなく、すべては偶然ではない、と感じました。

 私が在任中は支店の発展も早く、業績はずっと良かったのです。法の上で知り得たすべては皆、修煉の中で生まれた知恵から来たものであり、良好な環境の中では法を実証し、衆生を救うことをさらに行いやすくすることができました。さらに、三退を勧めるための様々な機会を自分で利用できましたが、修煉を仕事と生活に溶けこませることができず、仕事のために仕事をしたので、ずっと静かに学法できず、仕事中の人心がだんだん重くなり、自我が膨張し「自分には能力がある」と思い始め、名利に対する執着がどんどん重くなっていきました。

 旧勢力は尻尾をつかみ、人心を利用して常人とのトラブルを作り出し、修煉と衆生を救う環境に対して妨害してきました。このことに気づき「試練が来たので、自分で関を乗り越えなければならない」とわかりました。心の中はなかなかに余裕があったので「名利心を放下し、しっかりとした修煉者になろう」と自分に告げました。

 次の日、社長と面談し、社長は会社を代表して私を免職とする三つの理由を話しました。第1の理由は、私が大法を修煉しており、会社の中で法輪功の素晴らしさを伝え、三退を進めたことで、政治的リスクがもたらされるのではないかと会社に心配をかけたことです。その他、二つの理由はでっち上げの理由で、社長自身もその理由を知った後、二つの理由には少し無理があることに気づいており、最後に明確に「主要な理由は第1の理由によります」と言いました。

 社長の話を聞きながら、血がこみあげてくるのを感じ、この状況は予測できなかったことでしたが、頭ははっきりしており「これはすでに個人修煉の問題ではなく、旧勢力が真相を知らない人々を利用して、大法に犯罪を犯させることを絶対にさせてはならない」とわかりました。

 私は心を落ち着かせて社長に「信仰は私個人の問題で、会社は干渉する権利を持っておらず、支店は私と同僚たちが裸一貫からたたき上げて起こし、本社の資金を1元も使わずに今日の規模まで発展させてきたものです。今ここで、社長が接収管理するということですが、確かに、法律上は本社はその権力を持っているかもしれませんが、私たちにもそれに従わない権利を持っています。もし仕事上の原因で免職されるのであれば、修煉者として自分の損得に構わずに本社の決定に従います。しかし、もし個人の信仰の原因で免職されるのであれば、絶対に受け入れられません」と伝えました。

 私の話を聞いて社長は理解を示しましたが、これは取締役会の決定で社長個人で変えることはできない、ということを社長は言いました。しかしこの時も、私の心は静かで、この機会を借りて社長に、中国共産党が法輪功を迫害している事実と三退の意義を伝えると、最後に社長は共産党を脱退することに同意し、同時に、私の意見を取締役会に持ち帰ることを請け負いました。

 家に帰った後、このことについて妻と交流すると、妻も「これは私たちの名利心に対する試練であり、自分の利益を放棄できるかどうかが試されているが、中国共産党が行う迫害に対して決して協力できず、衆生に犯罪を犯させてはならない」。このように、私たちの認識は一致しました。

 この出来事は次のように発展しました。本社は人を派遣して接収管理を強行しようとしましたが、支店の従業員によって押し返されました。社長に電話してじかに連絡を取りたかったのですが、社長は電話に出ず、トラブルは激化し続けました。

 どこに問題があるのかがわからず、いろいろ探した結果、今回の出来事の過程の中にやはり恐れる心があったと感じ、大法を守る金剛不動の方面ではまだ基準に達していなかったと感じました。それで、絶えず確固とした正念を持ち、1歩も引かないと決意しました。

 ある日の午後、本社の事務室の主任が知らない女性を連れて私の事務所にやって来て、椅子に座ると「社長の代表として支店のことを処理しますが、これまでいろいろたくさんの話を聞いてきましたが、再度、実際の状況を確認しておきたいのですが」。そこで、これまでに発生した出来事と私の態度を改めて述べました。主任は私の話を聞いた後、一緒に連れてきた女性を指さしながら「この人は私の友人で、あなたと同じく法輪功を学んでおり、彼女は人柄も大変よく私はとても敬服しています。本社では、前にここに来た人から『ここの状況はひどく乱れている』と聞かされ、話が少しおかしいと思いました。というのも、法輪功を学ぶ人の状況は以前から理解しており、どうしてここの状況が私の理解と違うのだろうか、と思いました。この友人に説明したところ、私の説明を聞いてすぐにそれはあり得ない、状況説明が違うのか、あなたが法輪功を学んでいないかのどちらかだ、と言いました。さらに、私と一緒に見に来たい、ということでした。実際に来てみると、すべてが整然と管理されており、あなたの話も聞いてみて、確信しました。しかし、物事の処理の上であなたにもいくつかの問題が存在しているので、こうしてはどうでしょうか。私の友人と話してもらって、共通の話題を持ってもらい、それから、また別の人に状況を確認してもらい、その後に、社長に電話して報告します。社長はここの状況をとても心配しており、もしコントロールできない局面に陥ったら、直接公安局に連絡してあなたを捕まえてもらってもいい、と言われました。しかし、今はその必要はないと思っています」

 そう言い終わると、主任は事務室を出ていって別の場所へ行ってしまい、私とその同修だけが事務室に残されました。

 このようにして、同修と交流しました。同修が「法に則るということについて、どのように認識していますか」と聞かれ、私は、どのように迫害を否定するのかについて、自分の考えを強調しました。私の話を聞いて、相手は頭を振りながら「迫害を否定することは正しいことで、大法に対する強い心も問題ありません。問題はあなたがすべてをこじらせていることです」

 茫然自失とした表情で私を見て、同修は続けて「あなたの修煉中の漏れを旧勢力はつかみ、常人の良くない考えを利用して迫害を行いますから、私たちは行為の上で迫害を否定すべきです。正念を発して背後にある邪悪をなくしますが、常人そのものは邪悪ではなく、常人はみな、救われるのを待っている衆生ですから、救われるべき衆生と対立してはならないのです。そうでなければ、あなたはどうやって衆生を救うことができるのですか?」

 同修の話に返す言葉がなく、そうです、自分が常人社会の中できちんと行えなかったことで、大法に対して常人に犯罪を犯させてしまったことは明らかです。常人を中国共産党とみなして直接対立することなく、慈悲の心理状態を以って衆生を救うべきです。なぜなら、衆生が最もかわいそうなのであり、衆生を救えなければ、それは私の責任だからです。

 このことが明らかになると、ずっとぴんと張りつめていた心が軽くなり、続けて同修とさらに交流しました。私たちが悟ったのは、師父が同修を按排してくださり、この難を溶かしてくださいました。これらのことに、師父のご慈悲を深く感じました。

 しばらくして事務室の主任が帰って来て、椅子に座ると「さっき社長と電話で長く話し、ここの状況を報告し、報告を聞くと社長は安心したので私たちは帰りますが、社長に電話して直接話をしてください」

 社長に電話を掛けると、態度が全く変わっており、自分がきちんと行えなかったことについて社長に謝ると、社長には私の人柄に対しての十分な肯定があり、私に対する信任を表しました。その後、再び本社に行って社長と面談した時に、その機会を借りて真相を伝えました。

 法の認識において差が激しかったので、社長は「三退」に同意しませんでしたが、会社は私個人の信仰に干渉しない、と明確に表しました。普段は本社の従業員に対して真相を伝えることはなく、表面上から見れば客観的な理由があり、その理由とは、都会にいないので普段接触する人が少ないという理由です。しかし、実際には心性が低くいつも業務に忙しく、たとえ人と接触したとしても、その人たちを救うことに思い至らないか、あるいは思い至ったとしても、自分が大法弟子の身分であることを本社で公開したくないということに配慮し、口を開かなかったのです。

 今回の出来事を通じて、大法を修煉している事実を本社で公開すると、かえって負担がなくなり、人を救おうという正念も強くなりました。その後、仕事で接触した機会を利用して、さっそく事務室の主任と副社長を三退させたのですが、悪いことが本当に良いことになりました。

 これでわかるように、修煉中にどんなことに出会おうとも、心を正しく持ちさえすれば、法に則って正念をもって物事を見ることができるので、すべてが自分の修煉の向上となり、衆生を救い済度する機会となるのです。

 二、国保隊長に面と向かい「彼にただ、真相を伝えたいだけです」

 ある日、地元の国保隊長が電話してきて、会社にいる1人の若い大法弟子についての状況を尋ねられ、さらに「時間を調整して彼に会いたい」。電話を置いた後、江沢民告訴と関係があるのかもしれない、とすぐに気付き、会社から離れ、家に帰って身を隠すように、とすぐにその修煉者に伝えました。私たちの周囲ではすでに江沢民告訴のことで、修煉者が警官に不当に連行されるという状況が発生していました。ある同修は身を隠し、戻ってきた後は警官の追及は尻切れトンボに終わっていました。が、身を隠さなかった同修は警官に不当に連行され、ある同修は拘留され、ある同修はサインをさせられました。そこで「不当に連行されないために、会社を出て身を隠す」という観念が無意識のうちに意識の中で形成されました。

 家に帰ってこのことを妻と交流すると、妻は「大法弟子は本当の身分を以って江沢民告訴する勇気があるのに、それならなぜ、不当に連行しようとする警官に向かおうとしないのですか? まず第一に、江沢民告訴ということそのものが、中国共産党による迫害の中で、大法弟子が行う受動的に迫害停止を呼びかけることや受動的に衆生を救い済度することから、公開の場で中国共産党に面と向かい積極的に迫害を解体するという方向に向かわせる転換点です。それならば、江沢民告訴を取り締まる警官に相対するにあたって、どうして警官を避けなければならないのですか? 私たち大法弟子が迫害の元凶である江沢民を告訴した強い決心と信念を、どうして警官に向かって正々堂々と表明できないのですか? もしそれによって警官の正義感を呼び覚ませば、中国共産党の指図の下で引き続き悪を行うことはなくなり、これこそが警官を救うことではないのですか? 次に、大法弟子は責任を持って歩み、自分の修煉の道を歩み、後人のために正しい参照を残しますが、中国共産党に遭遇した時にそれを避けていたのでは、これは大法弟子のあるべき修煉状態ではありません。特に法を正すことが終わりに近づいており、邪悪の残りがすごく少なくなっている状況下ではなおさらです。自分の正念で正しくないことを正す、これこそが大法弟子のあるべき姿です」

 妻のこの認識に納得したので、すぐに若い修煉者と他の修煉者とともに交流しました。若い同修は修煉時間が短かったので、恐れる心を持ち始めましたが、交流の過程ですぐに正念が出てきて、国保隊長と相対して、なぜ江沢民告訴をしたのかを正々堂々と伝え、二度と避けたりしないことを決心しました。交流が終わった後、みんなが全体で国保隊長に対して正念を発し、若い修煉者は国保隊長に電話をかけて会う時間を決めました。電話を置いた後、若い修煉者は嬉しそうに皆に「やはり邪悪は皆さんの発した正念によって片付けられてなくなってしまい、国保隊長が話す態度は特別によく、とても親切でした」

 くつろいだかのように見える環境に直面しても、皆に歓喜心は生まれず、国保隊長との面会前のわずかに残された数日の時間に、若い修煉者と一緒に一刻も無駄にせず学法し交流すると、若い修煉者自身も内に向けて探しました。そして、常人の楽しい生活に対する執着を放下できないことを見つけ、修煉の決心がにぶるなどの修煉中の不足をみつけました。ですが、修煉者たちの正念による加持によって、若い修煉者の正念もだんだん強くなり、どのように国保隊長に相対するのか、を再び交流した時、その若い修煉者は心から「私は彼に真相を伝えたいだけです」と言った。

 若い修煉者の安全と、真相を伝える効果を考慮して、私と若い修煉者が一緒に国保隊長に相対することを皆で決定し、その他の修煉者は外部で発正念をして協力することになりました。

 国保隊長と会った時、若い修煉者の正念は足りており、まず一念を発して国保隊長の背後にある邪悪を解体し、それから、なぜ江沢民を告訴したのかを国保隊長に静かに語ったので、私はそばで静かに正念を発しました。若い修煉者が話し終わるのを待って、国保隊長は中国共産党によって頭に入れられた屁理屈と邪説で若い修煉者を「教育」し始め、さらに、大法と師父を中傷し始めました。すぐに一念を発して一喝し、国保隊長の話を止めて、私の大法に対する認識を話すと、双方が真っ向から対立し始め、緊張した雰囲気になりました。緊張した雰囲気の中で、絶えず自分を調整し、腹が立たないように闘争心をろ過し、このかわいそうな生命を慈悲深く救い済度するのだという気持ちを、できるかぎり保ちながら国保隊長と話をしました。背後で国保隊長が真相を聞くのを妨害しようとしている邪悪を正念で絶えず取り除き、国保隊長の主元神を呼び覚まして真相をわからせようとしました。若い修煉者もそばで正念を発し、ゆっくりと平和な雰囲気を次第に取り戻し、双方の観点が完全に対立していた最初の状態から、だんだんと共通認識を持ち始めるようになりました。その共通認識とは、大法を修煉すれば病気治療と健康保持ができること、憲法が信仰の自由を規定していること、中国共産党は専制腐敗しているなどでした。

 同時に、国保隊長の障害となっている難点に私は少しずつ気づき始め、国保隊長の考えに対して真相を伝えました。国保隊長の難点とはたとえば、長期にわたって無神論を頭に入れられた影響を受けているので、神佛の存在を信じず、信仰は一種の心のよりどころであり、過信すると信仰に溺れることになると思っている、ことでした。そこで「世界中で多くの人が信仰を持っており、傑出した多くの科学者でさえ神の存在を信じており、敬虔なキリスト教徒ですが、まさかその科学者たちが愚かで無知である、と言いたいわけではないですよね?」と反問しました。しかし、国保隊長が「法輪功が政治に参与しており、海外の反中国勢力に利用されている」と思っていたので「多くの中国共産党の高官の家族と、全人代の代表、中国人民政治協商会議委員はみな、外国の旅券を持っているので、正真正銘の外国人であり、そうであれば、その人たちは中国人民の利益を代表できるのですか?」と反問しました。また、ある意味ではその人たちこそ本当の反中国勢力なのではないか、などと伝えました。このように互いに1時間以上話し合い、事実を突きつけられて、国保隊長も多くの真相を承認しなければならなくなりました。最後にただ「中国共産党の統治下ではこのようにしかできず、能力があれば移民して海外に行くが、そうでなければ、おとなしく中国共産党の言うことを聞くしかなく、その人たちは中国共産党がとても目障りだと感じている、と表していますが、それでもどうしようもなく、一家を養いなんとか暮らしていくためには、中国共産党に命を売るしかないのです」と言えただけでした。

 国保隊長が無神論を堅持していたために「悪いことをすれば罰が当たる」ことを再び話した時、国保隊長は信じず、最終的にここまでしか話ができなかったのは、国保隊長の毒害が深かったこともありました。しかしそれは私たちがまだ十分な正念と慈悲心を生み出せなかったことにあり、最終的にはやはり、この生命を徹底的には救えなかったのであり、本当に残念でした。

 事後、修煉者たちはこのことで交流し、皆は「今回のように、同修の心性が基本的に目的を達成できる状況下にあれば、直接警官と対面して真相を伝えるべきで、その間、同修たちは全体で協力して正念を発して迫害を解体すべきなのだ」と思いました。今回、この点において深く体得し、協力に参加した同修は全過程で正念を発し、同修たちの強大な正念場の下では、国保隊長も険悪になれませんでした。

 また、真相を伝える具体的な効果について執着してはならず、最大の善念に基づいて真相を伝え、生命の背後で生命が救われることを妨害しようとする邪悪要素を取り除き、最終的に救われるかどうかはその生命自らが決めることです。今回の出来事を経験した後、若い修煉者の修煉に対する気持ちが大いに高まり、修煉状態に大きな変化が起こりました。

 三、「相は心から生じる」という法理に対する理解

 上記の二つの出来事を経験したことは、私にとっては修煉の道で大きな二つの関を乗り越えたことになり、関を乗り越える過程で「恐れる心」や「名利心」など、長期に存在した「執着」を相当程度取り除き、特に、執着を取り除く過程で「相は心から生じる」という法理に対して深い理解がありました。

 まず「相は心から生じる」という法理を体得した過程とは、人の思惟を抜け出し、法に則って正念で問題を見る過程でした。以前、私は修煉者と言えましたが、修煉中に何かに遭遇した時は往々にして「心が相に従って動く」状態でした。たとえば自分の恐れる心について言えば、中国共産党の迫害が厳しいときは、恐れる心が重くなり、周囲の環境にゆとりがある時は、恐れる心が少なくなります。これは完全に人の思惟であり、自分の目で見た表象を信じ、自分が修煉者であることを忘れています。だが、私たちには師がいらっしゃり、大法があり、師父は法を正す全てを把握なさっておられるので、心の中で師父を思い、法を念頭に置きさえすれば、すべては師父のおっしゃるとおりになり、外界の環境がどのように変わろうとも、表われたすべてを真実に見ることができれば、それは虚像であるので心は動かず、何事もあなたを動かすことはできないのではないでしょうか?

 師父は「皆さんはすでに相生相克の法理を知っていますが、恐れる心がなくなれば、あなたを恐れさせる要素も存在しなくなります」[1]、「汝に恐れ有らば 它はじきに抓む 念を正しくすれば 悪はじぐに崩る」[2]と説かれましたが、これは違う方面から同じ法理を開示してくださっているのです。常人の角度からでは修煉の論理を理解できず、現れた状況を偶然とみなし、それによって見えた「相」が根本であると思ってしまうと、虚「像」が真「相」になってしまいます。それによって「心」が動くのは必然ですが、修煉の理から見るとそれは反対で「心」によって「相」が促され、「心」が去れば、すなわち「相」が滅する、ということです。

 また、真相を伝える過程では、以前は異なる職業、異なる身分、異なる態度の人と対面すると影響が大きかったために、いつも人を選んで真相を伝えました。多くの人の前では口を開けず、時には無理やりに口を開いても、心性が全く低かったので、効果もよくありませんでした。しかし、「相は心から生じる」の法理がわかった後は、自分が人を救うのだという信念を意識的に強化し、絶えず自分に言い聞かせ、一人一人はみな尊い生命であり、みな救われに来たのであって、真相に対面して現れるすべての良くない反応は、その背後にいる邪悪が行ったものです。それで、正念によって根絶しなければならず、慈悲の心を抱いて生命の本当の自分を救えば、その人のはっきりしている一面が正しい選択をするはずです。このように「視ても見ざれば 迷わず惑わず」[3]の境地を少し実感し、面と向かって真相を伝える時に正念を以って主導すると、相手が受ける妨害がだんだん少なくなり、思考もだんだん開けていったのです。

 次に、「相は心から生じる」という法理がわかった後、法を正す修煉の道がさらにはっきりと見えるようになり、大きな岩のように堅固な大法に対する正しい信念がさらに確固としてきました。修煉の過程では、各種様々な魔難の中に長期にいて抜け出せない修煉者が周りにいることをいつも見ています。ある者は仕方なく魔難を受け入れ、ある者は関を越えることをあきらめ、ある者はいつでも外に求め、さらにある者は間違って邪に悟り、修煉者一人人の修煉の道が異なり、乗り越える関の大きさが異なり、直面する状況が異なるのです。なにもかも同等に論じることはできませんが、根元的な問題は同じで、それならば、師父と大法に対する正しい信念が基準に達していないのであり、目に見えた虚像によって心が迷ってしまっているのです。すべては宇宙大法によって切り開かれたもので、心が本当に法に溶け込んでいれば、乗り越えられない関があるのでしょうか? 修煉中の魔難に面して心の中に現れたすべての疑惑、不理解、仕方がないという気持ちと消極的な精神状態を、もし法を用いていつでも正すことができないのであれば、後に大法からの背離を引き起こす要素になるでしょう。これは「相は心から生じる」という法理に対するもう一つの理解です。

 また「相は心から生じる」という法理がわかった後、自分に言い聞かせ自分に注意を払う一思一念にいつでもさらに注意し、普段はできるだけ正念を保つ状態にし、時によくない念が現れても、すぐに抑え込み、よくない念を取り除き、よくない念を自由にはさせませんでした。師父は「人心があると、各種の人間の考え方、各種の考えの根源が全部、あなたを妨害します。あなたの考えがある種類の生命の状態と一致すると、その種類の生命はすぐさま作用を働きます」[4]と説かれました。着実な修煉の中で「実際、修煉とは心を修めることであり、心が法に従っていれば、十分な知恵と正念が生まれ、修煉の道をどのように歩めばよいのかがはっきりと見えるのだ」ということをだんだんとはっきりと認識しました。心の中の執着を修めて取り除き、修煉の中では人心の先導の下で間違ってしまうことはありませんでした。心が正しければ虚像が生まれず、法の純真で純粋な心こそ本当の慧眼であり、修煉の道をどのように歩めばよいのかがはっきり見えるのです。

 修煉の中で、いつも師父の慈悲を感じ、師父は新経文「波紋を呼んだ副元神に関する文章について」の中で「大法弟子は慈悲をもって世が乱れ法が乱れている中、衆生を救っています。もちろん、自分自身の範囲内にいる生命も含まれています。衆生を救っているので、もれなく生命に機会を与えています。長い間、機会を与えられている生命もいます。その過程で本当に良くなった生命がいますが、最後になってやはりダメになった生命もいます。ダメになったら取り除かれます。このようなことは皆さんが修煉の過程でずっと行なっています。師父も皆さんのために行なっています」と弟子をたしなめていらっしゃいます。

 師父のこの法を拝読し、衆生に対する師父の洪大な慈悲を改めて感じ、同時にこの上ない光栄と感動を感じ、師父は弟子たちに法を正すことの手伝いをするよう要求されており、衆生を救い済度する中でも、同様の慈悲と博大な気持ちがなければならないのです。歩んできた修煉過程を振り返ってみると、師父へのご恩は言葉では言い表せず、修業に励むことを怠らないことだけが師の恩に報いることができます!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「何を恐れる」
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道の中」
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」

 (明慧ネット第13回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/1/336974.html)
 
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