病業を通して師と法を信じる事が試されている  
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文/オーストラリアの大法弟子

 【明慧日本2016年10月27日】私は35歳です。1998年の春から法輪大法の修煉を始めました。その後1999年から始まった法輪功への迫害のため、私は修煉からだんだん離れていきましたが、ある病業をきっかけで、再び修煉に戻りました。病業というのは、私の右足の親指が化膿し、表面上は湿気のためだと診断されましたが、なかなか治りませんでした。母に勧められ、再び修煉を始めました。私が大法の本を読み始めてから3日後、親指の傷にかさぶたができました。

 その後、母は病業で亡くなりました。母には直腸がんがあり、お腹が膨らんでいつも便秘が酷く、手術を受けて12日後、病院で亡くなったのです。私は、「母はとても精進していたのに、どうして最後まで守られなかったのだろうか?」とずっと考えていました。

 私の最近の病業は重症の風邪の症状でした。基本的に毎年冬と春の季節の変わり目には、いつも同じ症状が現れ、1、2日ほど熱と軽い咳が出て、すぐに治りましたので、今回もあまり気にしていませんでした。

 私は普段あまり煉功をせず、学法も少なく、いつも言い訳をしていました。今回病業の症状が現れましたが、いつもと同じように我慢しようと思いました。修煉していない家族も私が薬を飲まないと知っており、しかも毎年同じように治っていたので、何も言いませんでした。

 しかし、今回は以前の症状と同じように発熱し、咳が出ましたが、右側の耳下腺にしこりが出て、とても痛かったのです。熱が3日も下がらず、その間毎晩眠れず、体には強い悪寒がありました。3日間、私は煉功も、学法もしましたが、求める気持があったので、症状が改善しませんでした。

 私は中医学を学んだ経験があり、積極的に発汗させましたが、翌日になるとまた熱が出ました。私は自信をなくし、熱がいつまで続くのかわからなくなりました。「もし、ずっとこのように熱が続くと、内臓が悪くなるのではないか?」と心配しました。身体中が痛くて痛くて、何を食べても味がしませんでした。

 私は真剣に考え始め、今回は大法の立場から考えなければ治らないと思いました。この問題は病業の問題だと悟り、母が亡くなってから、私もいろいろ考えて関連の交流文章も読み、大きなインスピレーションを受けました。今回悟ったことは私に自信をもたらしてくれました。

 私は、師父に「本当の演化の過程は他の空間で行われており、極めて複雑で微妙であり、ちょっとしたずれも許されず、精密機械に他の部品を一つでも付け加えると直ちに故障してしまうのと同じです」[1]とご教示をいただいたと悟りました。

 私は大法弟子なので、他の空間にある身体は、師父が見守ってくださっています。他の空間の身体で起こったすべては、精密機械のように奥妙で、他の要素に左右されることはなく、間違いはあり得ないのです。

 ご存知のとおり、身体に何か問題があった場合は、他の空間の身体に問題があったのです。常人も同じです。大法弟子は他の空間の身体を師父に厳格に管理していただき、精密機械のように演化していただいていますので、不安になることはなく、不正な状態になることはさらにありません。

 私の肉体に問題が起きたのは業力が原因です。借りは自分で返さなければなりません。表面上、体が辛くて、症状がひどく、多くの同修は骨折したり、内臓に大きな腫瘍が出来たこともありますが、自分が大法弟子であることを堅持すれば、他の空間の私達の身体は師父によって管理され、少しのずれもありません。いずれにしても私達の肉体は悪くなったように見えても、私が以前考えた「内臓が悪くなる」ような状況はあり得ません。「耳下腺に出来たしこりがガンになる」こともあり得ないのです。師父が按排してくださった私の身体で負担すべきことを受け止めた後は、どこ吹く風のように、体内に何も悪いものを残すことはあり得ないのです。他の空間の身体は、相変わらず師父によって見守られ、私達が負担した苦しみによって心性が向上し、たくさんの良い物を与えられるのです。

 師父が管理してくださっている以上、私達自身は何もしなくてよく、しようとしてもできないのです。常人の医学理論は低レベルのもので、どうして管理などできるでしょうか? 薬を飲んでいる同修や、他の方法を利用している同修は、実は自分が管理に参与したいのです。師父は「精密機械に他の部品を一つでも付け加えると直ちに故障してしまうのと同じです」[1]と言われたように、私達が邪念を加えたり、病院に行ったり、薬を飲んだりすることは、実は師父に管理をしていただかなくてよいと、自分で宣言していることに等しいのです。

 ご存知のとおり、大法弟子は体に問題があっても、常人とは違い、要因が非常に複雑であり、基本的に常人の手法では治療できないのです。一旦師父に管理していただかなくてよいと宣言したなら、どんな結果になるか想像できるはずです。

 大法弟子として、師父に管理していただきたければ、師父の言われる通りにやらなければなりません。私は普段どおりに家事をして、家族に病気だと感じさせませんでした。体調が悪くても、この道理を悟ってから、安心できました。それから私は煉功をし、法を暗記したので、熱は1日で下がりました。 

 第一、第三、第四式の功を煉功した時、熱はまだありましたが、寝る前に第二式を煉功すると、いっぱい汗をかきました。とても嬉しくて「こんなにいっぱい汗をかいたから、熱が下がるはずだ」と思いました。その後すぐに自分の考えを否定しました。煉功は汗をかいて病状を減軽させるためではなく、大法弟子がしなければならないことです。煉功するときに頭の中を無にして、余計なことを考える必要はありません。何かを求めれば邪念が頭に入ってしまうので、無心になろうと考えると、心が安らかになりました。煉功が終わってから、その夜はとてもよく眠れて熱もなく、翌日まで全く熱が出ませんでした。

 大法弟子が常人と最も違うところは、大法弟子の身体に問題が出ないのではなく、問題が出たとき、どういう態度をとるかということだと悟りました。一部の同修は体に問題が現れて、常人の医学理論で状況がかなり悪いと言われると、心が乱れてしまうのです。それは師父を信じていないことにほかなりません。根本的に自分が大法弟子として、常人とどう違うのかがわかっていないのです。

 私は、自分で管理しませんし、したくてもできません。心配する必要もなく、心配しても何の役にも立ちません。やるべきことをやり、心が乱れたら、法を学び、正念を発し、正念を増やします。再び心が乱れたら、さらに法を学び、煉功をし、正念を発し、正念を増やします。修煉者にとって、何事も正念を持って行えば、誰も左右することはできません。手元にある事情をしばらく横に置いて、自分の正念を増やすことが最も大切です。

 私は関を乗り越えるとき、夫に、「薬を飲まずに、我慢するのか?」と言われ、「我慢するのではなく、師父が管理してくださっているのです」と答えました。

 体が不調のとき、これは業力を返しているのだと悟りました。苦しみを負担したことで、私達の業は徳に転化されます。しかし私達の心性が向上しなければ、徳は功に転化されず、私達は病業の関を越えることができないかもしれません。表面に現れている現象は、心が不安定で、時に信じ、時に信じられず、求めているのです。こうして多くの同修の肉体が連れて行かれました。自分の身体で負担したとき、徳は功に転化され向上するのです。病業を乗り越えられないかもしれないと心で考えることは大法に相応しくなく、心性が向上できていないのです。たくさんの徳を持っているのに、私達が修煉に対して堅信していないため、功に転化されていないのです。

 私たちが病業という形で現れるいわゆる「病気」の症状を放下するとき、根本的に師を信じているかどうかが試されています。法輪大法の弟子は正念を持ち、自分の名称に相応しくならなければなりません。

 個人的に悟ったことですので、不備なところがありましたら、慈悲にご教示ください。

 注:
 [1]李洪志師父著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/10/8/336033.html )
 
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