人間を迷わせてきた病という概念
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 【明慧日本2016年6月28日】以前、『轉法輪』の第八講の「気を盗むこと」の節を読む際、人間の観念に妨げられ、法の内包が見えませんでした。最近、この節を暗記するとき、そこに非常に多くの内包が隠されていて、しかも多くの常人社会の謎が分かりやすく解かれていることに気づきました。常人がこれを信じるかどうかは別問題です。

 「病」という単語は人間を迷わす仮相で、人間にとって、病自体は偽の概念です。病は人間を死に至らせることはできないし、人間の苦しみをもたらす真の原因でもありません。病はただ、高次元の生命は人間が宇宙の真理を知る遮りとして設けた一つの謎に過ぎません。数千年来、人間はこの偽の理に騙され、この認識から脱皮できませんでした。

 世間の偽の理が一歩一歩と人間を惑わし、しまいには完全に人間に信じ込ませました。人間はどの段階で誰に債務を返すべきか、どのような形で、どの程度の苦痛を経て返すべきかすべて定められています。その時になれば、スイッチが作動したように、業を返すための病を引き起こす良くない霊体が出てきます。以前、常人の間で病魔という単語がありました。古書では「鬼」とも呼ばれています。師父は『轉法輪』の中で「良くない霊体」[1]と表現されました。そう定められた通り、その良くない霊体が人間の特定空間の特定部位に入ります。これらの霊体は違う種類や形をしていて、違う作用を働き、非常に多くて乱雑です。また、これらの霊体は人間の行った良くない事と業を返す方式によって専門的に作られていて、人間を完全に迷わせました。人間の作った業が多くなるにつれ、そして働いた悪事がますます悪質になるにつれ、それに相応して作られた霊体もますます多く、ますます奇々怪々になってきました。師父はこうおっしゃっています。「最も主要な原因は、わたしから見れば、やはり人類の道徳水準の低下によって、いろいろ奇々怪々な病気が現われたためです」[1] すべては神によって把握されていて、すべてには因縁関係があります。

 人間が按排された業を返すべき年齢になってその日が来れば、常人を迷わす誘因が現れ、良くない霊体が人間の体に入ります。人間は風邪をひいた等などの外部原因によって病気になったと思ってしまいます。実際、病気という概念自体も存在せず、それが業を返すことであり、良くない霊体によって生じた苦しみが人間を迷わしただけです。この霊体は人間を死に至らせることはありません。人間は寿命が来たら死にますが、病気という苦しみの中で死んでいく仮相は、またも人間を惑わしてしまいました。人間は寿命になったら必ず死にます。しかし、なぜ寿命が来ていないのに死んでしまう人がいるのでしょうか? それは良くない霊体によって命が奪われたのではなく、その人自身が病気を怖れ、自分で自分を先に世を去らせたのです。この時、按排より早く世を去ったとしても苦痛から解放されることはなく、食べ物や飲み物もないところで引き続き業を返していくことになります。業をきれいに返さなければならないのです。

 一例を挙げましょう。天目が開いているある同修は、ある人が前世で狩りをした時に狐の脚を怪我させたために脳血栓になったのを見ました。今の脳血栓の苦痛はその狐に負わせた苦痛を返しているのですが、その苦痛の程度に少しの差異もありません。脳血栓になった人の歩き方も、狐が怪我した後の歩き方とまったく同じです。本当に天理なのです! つまり人間社会における病の現れの全過程が偽物です。しかし常人にこのすべてを知らせても恐らく信じようとせず、ただの作り話だと考えてしまうでしょう。

 それでは、その良くない霊体が人間の苦痛を引き起こす原因でしょうか? 個人的な理解では違うと思います。その霊体を追い払っても、造った業は必ず返さなければなりません。これが天理です! しかし修煉者に限り、自分の造った業をすべて自分で返さなくても、大多数の業は師父によって滅される(代わりに負担して頂く)ことが可能になります。それは師父の威徳が洪大なゆえに、これほど多くの弟子を救い済度することができるのです。小さい法門であれば師父が弟子の業を肩代わりすることは不可能なことです! その法門に入門する場合、弟子たちは自分で業をきれいに滅しなければなりません。その後、師父に気機を植えつけてもらってから、ようやくその法門に入り修煉することができます。大法弟子の何人がこのすべてを真に理解しているのでしょうか! 私たちの師父の慈悲は人間の言葉で表現し尽せず、神の言葉を借りても表現しきれないでしょう。師父の行なわれたすべては、神々の想像をも遙かに超え、彼らの理解の範囲、思惟の極限さえ超えています。ですから天上の神々は、一部の大法弟子が大法を大切にしないのを見て、とても許されるような事ではないと思っています。なぜなら、大法は人類にとって佛恩による未曾有なお恵みなのですから!

 実際、業力も低次元における債務に関する記載の表れです。高次元の生命が他の生命に対し債務を負ったならば、そのすべてが記録映画のように完全に記載されます。神はその記載に従い、よくない霊体を指定して債務を取り立てます。例え医学方法でその霊体を抑制できたとしても、しばらくの間だけしか効果がなく、どのみち人間はその債務をきれいに返済しなければならないのです。なんと人間社会は苦しいのでしょうか! もし、真に衆生を救い済度する覚者が来なければ、人間は苦しみから脱け出せる日を永遠に見ることができないでしょう!

 師父は法の中で明確におっしゃっています。「病根はすでに取り除かれており、残りはほんの少しの黒い気で、それを外に発散させるので、あなたにほんの少しだけ難を与え、ちょっとした苦しみを嘗めさせることになります。あなたが全然苦しみを嘗めないわけにはいかないのです」[1]

 実際、人間があれこれ名付けているさまざまな病名も、それぞれ違う霊体のこの世での表れの名称です。人間に違う苦しみをもらたすこれらの霊体は分類が非常に難しく、違う霊体が違う黒い気を発します。天目の次元が低い人が見てもはっきりと見分けることができず、ただ黒い気としかみることができません。

 常人の業力は深い空間に存在していますが、表面空間まで押し出されておらず、その良くない霊体が現れていなければ苦しみを感じることはありません。個人修煉の段階で大法弟子が経験する病業は、実は師と法を信じる度合いを試されているのです。ですから真に自分を煉功者として考え、常人の理で物事を考えず、強い正念を持てばすぐに関を乗り越えることができます。

 しかし正法時期においては、師父は病業の関を按排されていません。もし弟子に病業が現れているとしたら、すべてそれは旧勢力による仕業です。その場合、頭をはっきりとさせ、すぐに発正念して旧勢力による一切の迫害を否定し、師父のお助けを求めるべきです! と同時に、内に向けて探し、自分の漏れを探し出すべきです。ほんのわずかでも念を正しく持てなければ危険です。

 数千年来、病は人間を迷いの中に閉じ込めらせていました。人間は、病気という現象が、苦痛をもたらし、治療しなければますます重くなり、生命の危険に至ると思っていました。一方、病という現象は治すことも可能で、ただ偶然の原因によって発症すると思っています。治すことができない場合は、思想がそこで留まり、その後再び考えようともしません。それらの人間に苦しみをもらたす現象を総じて「病」と称しました。人間の病に関する概念はあまりにも浅はかです。このような認識は偽の理で、間違った認識ではないでしょうか? 

 修煉者がそのような大きな病業の関に直面したら、それはまさに師と法を信じる信念が試される時です。修煉者の常人の一面は絶えず法を学び、真に法理を理解すべきと思います。

 以上は自分の現在の次元での認識ですが、正しくないところがあれば同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/6/20/330167.html)
 
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