「病業」についての浅い認識
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  【明慧日本2016年2月25日】大法弟子の中で、「病業」の妨害はすでに厳重な問題になっています。私がいる地域で、毎年病業に妨害されている同修がおり、甚だしきに至っては肉体を失う人もいます。今年はまた数人の同修が病業で入院し、亡くなった人もいるので、大法の資源と衆生済度に大きな損失をもたらしました。

 「病業」についての交流文はたくさんありますが、病業を招いた原因は様々で、正念で強く対処できる人がいれば、正念が足りない人もいます。それぞれの修煉の道が違うがゆえ、出会う関の大きさも異なります。人によって、内に向けて探せば、すぐ見つかる人や、時間をかけて、やっと見つかった人、毎日探しても、執着をたくさん見つけたが、肝心な執着を見つけることができず、亡くなった人もいます。ゆえに、同修の間で「修煉している人だから、間違いを犯したり、人心があったりするのは当然です。これからの大法の修煉の中で、正されていくので、旧勢力に迫害されるのは許せない」と言うのです。

 そもそも「病業」への観念を根本から変えなければならないと思います。真に修煉している人に病気はないのです。多くの同修は体の調子が少し悪くなると、すぐに病気にかかったと思ってしまいがちです。例えば、私は風邪を引いたとか、誰それの同修が糖尿病にかかったとか、誰それの同修が脳血栓を患ったとか、誰それの同修は癌を患ったとかと言うので、やはり無意識の内に病気を認めています。確かに常人の病状が現れてきていますが、私たちは超常ではありませんか? 修煉の当初から、師父はすでに病気になる要素を、取り除いてくださっています。そして十数年も二十数年も修煉してきて、なぜ病気になると言うのですか? やはり根本から師父と大法を信じていないからではないでしょうか? 師父は『轉法輪』の中で「『病気』という言葉さえ聞きたくありません」と説かれました。そして、1999年の7月20日に、師父は既に私たちを全部所定の位置に押し上げてくださいました。ただ衆生を救い、さらなる果位を成就するため、まだ世間にいるだけです。

 その腫瘍はそこにあるのに、なぜ病気ではないと言うのですか? と思う同修がいるかもしれませんが、あくまでも虚像に過ぎません。例えば、ある同修の顔に腫瘍がありました。他の同修が見かけると、それは何ですか? と聞くので、その同修は何もないと答えます。先の同修はまた根掘り葉掘り聞くので、その同修は相変わらず何もないと答えます。そして、しばらくして顔の腫瘍が消えました。表面から同修がうそをついているように聞こえるかもしれませんが、実は同修は迫害を否定しているのです。元々虚像ですので、しかし、それを認めると、本当の事になってしまいます。根本から病気ではないと否定できるかどうは、最も肝心なところです。

 『二〇〇三年元宵節での説法』の中で、師父は「新しい学習者以外、師父は99年7月20日以降、いかなる個人修煉の関も皆さんに与えたことがありません」と説かれました。ゆえにあらゆる「病業」は、すべて邪悪が私たちへの迫害であるほかありません。旧勢力とその他の生命は衆生を滅ぼす目的を達成するため、大法弟子を試す名目で、邪悪な中国共産党を操り、直接迫害するほか、「病業」の形で迫害を加えようとしています。それらに私たちを試す資格はありません。それらの按排を完全に否定するため、行動で示す以外、病に対する観念も徹底的に変えなければなりません。新しい学習者が業を滅していることを除き、古い同修の場合、病気とか病業だと言わず、肉体への迫害や、正しくない状態だと言い換えるほうがいいと思います。

 自分の思想の中で、大法弟子に病気がないと認識すべきです。肉体への迫害や、衆生を救い済度することへの妨害を決して認めてはいけません。もちろん法の要求を満たすよう、自分をよく修め、そして正しい念を持ち、正しく行えば、師父は助けてくださり、私たちへの迫害を取り除き、衆生を救い済度する使命を完成させることができます。

 個人の認識ですので、不適切なところは、慈悲に指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/2/16/324199.html)
 
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