小さいことに修煉者の心性が現れる
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 【明慧日本2016年6月29日】私は自分ではお金や財産のことをはあまり重く見ていないとずっと思っていました。不義の財には手を出さないように厳しく自分を律していました。修煉を始めてからは、以前勤め先からもらった特別謝礼金や贈り物などを勤め先や慈善団体に寄付してからは、一銭も受け取ったことがありません。勤め先が住宅を割り当てる際には、自分と同じ条件の人に優先的に選んでもらい、普段の仕事や出張の時も費用をはっきり分けて精算し、社費で招待された時も自分のお金や物品で返しました。夫が交通事故で亡くなった時、相手側の運転手に責任がありましたが、私たち家族は相手の立場に立って配慮し(相手の車、車に載せた貴重品も全て失い、命だけ助かりました)、15万元の賠償金も受け取りませんでした。このことは地元の交通警察部署の間に美談として伝えられ、自分はお金や財産など利益に対する執着は放下したと思い込んでいました。

 しかし最近学法している時、真にこの執着心を捨てきっていないと気づきました。例えば、市場で食材を買う時に値切りをしていたこと、同僚が数十元を返し忘れたことをずっと気にしていたこと、夫をはねた運転手がまたBMWの高級車に乗っていると聞いた時、事故以来一度も私たち家族(私、子供そして義理の両親)に会いに来たことがないのに、どうして世の中にこのような恩知らずの人がいるのかと思い、心のバランスが取れなくなったのです。

 今は収入があまりなく生活状況は苦しいのですが、交通事故の時と先に挙げた事例の対処方法の差があまりに大きいので、私は深く考えました。交通事故の時に自ら高額な賠償金を放棄したことの裏に強い顕示心が隠れていました。「みてください、私は良く修めているでしょう。こんな大金も放下しましたよ」という思いがありました。このように大法を実証しようと思いましたが、裏には自分を実証しようとする心が隠れていました。このような顕示心があったので、利益に対する心を真に放下できませんでした。

 修煉には少しの嘘偽りがあってはなりません。修煉の中で小さいことはなく、小さいことから修煉者の心性や次元をみることができます。まさにこのような小さいことから私は自分の利益に対する執着心を見つけると同時に、長い間隠れていた顕示心に気づきました。

 気づいたら取り除かければなりません。食材を買う時に、適切な価格なら買いますが、受け入れられない価格なら買わないようにしています。どうして値切るのでしょうか? 無理に値引きをしてもらった場合、徳で償わなければならないのではありませんか? 同僚にお金を貸してあげたとき、返してもらえないのは以前の因縁関係があるのではありませんか? 良いことをしたからと言って、相手からお返しを求めることは、修煉者と言えるでしょうか? これらのことは法を深く理解できず、常人の心があまりにも重く、真に損得の念を放下できていなかったのです。しかも、修煉の中で多少の代価を支払ったとしても、顕示して何になるのでしょうか? それは大法の中で修煉し得たものではありませんか? それは師父の慈悲であり、大法の威徳です。師父の洪大な御恩に感謝しなければならないのに、顕示する資格などあるでしょうか? 「溶鋼に木屑が落ちたら、瞬時にその姿が見えなくなります」[1]なのに、溶鋼を前にして小さな木屑は顕示するに値するのでしょうか?

 同修の皆さんは、修煉の中のいかなる小さなことも見逃さないて下さい。小さいことから修煉者の心性が見え、修煉者の次元や思想境地が現れるのです。

 個人の体験で、次元に限りがありますので、不足のところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1]李洪志先生の著書:『北米第一回法会での説法』

 
(中国語: http://www.minghui.org/mh/articles/2016/5/6/327635.html)
 
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