人間の殻から抜け出す
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年2月22日】蝶々が苦しみながら脱皮した後、羽を広げて自由に飛べるように、修煉も人間の殻から抜け出なければなりません。つまり人間の思惟を含め、すべての執着を放下しなければならないのです。

 最近の修煉を通して、一切の人間の物を徹底的に放下しなければ、本当に円満に達することができないと感じました。十数年も修煉してきて、確かに多くの執着が薄らいできていますが、その一方で、最も頑固な執着も表に現れてくるようになりました。何回も何回も取り除いてもまだ現れて来るので、それに苦しめられ疲れ果てました。

 人間の執着と欲望への未練が少しでもあれば、関に直面した時、それが拡大され、乗り越えられなくなる原因となります。例え、一億分の1の執着しかなくても、それを1まで拡大することができます。すべてなくすことこそ、真に放下したと言えるので、その状態に達してこそ、やっとそれに困惑されなくなり、動じなくなります。ゼロをいくら拡大してもゼロだからです。

 真に修煉したい人であれば、人間のすべての執着を徹底的に放下しなければなりません。行動において、完全に放下できなくても、少なくともこのような認識と決心がなければなりません。円満成就したければ、勇猛精進し、人間の思惟を含め、人間のすべてを徹底的に放下しなければなりません。

 関をなかなか乗り越えられない時、往々にして一つのはっきりとした認識がないからです。内心のどこかに自分の趣味や、ある種の欲望を残したい、という気持ちがあります。明確ではないものの、奥深くへと探していくと、確かにそのような考えが潜んでいます。自分の心の深く隠された本当の考えを見つけた時、やっとこの問題の厳重さを意識します。

 「 葉公好龍(しょうこう こうりょう) 」(訳注:春秋時代楚の貴族・葉公は竜を器に描かせたり、部屋に彫り込んだりするほど竜を好んでいましたが、実際竜を見たら驚いて腰を抜かしてしまった)の話のように、法も得たし、大法弟子の身分に誇りを思っているにしても、いざ修煉者の基準に達するべき時が来ると、自分はかえって人間の物を放下したくないのです。

 もし誰かに自分は修煉者ではない、或いは修煉したくないと言われると、必ずその人と喧嘩になり、論争することになります。しかし、実際に人間の執着を放下する時になると、かえって保留する部分があります。人間の物を放下したがらなければ、それはまだ修煉者なのでしょうか? 実際の行動は修煉者ではないのです。

 修煉は厳粛なもので、少し足りなくてもだめです。しかし、運が良ければと思う心理は、自分を害しています。人間の物を少しだけ残しても大丈夫だ、と人心で修煉に対処し、多くの苦を嘗めてきましたから、たくさんの事を行なってきましたから、つまりこれで修煉した、これで修煉できていると思うのは、真の修煉を分かっていないからで、修煉の厳粛さも認識できていないのです。

 ここまで書いて、あるストーリを思い出しました。ある父親に三人の息子がいました。それぞれの夢を聞くと、長男は金持ちになりたいと言い、次男は仙人になり、鶴に乗って扬州市へ行きたいと言いました。三男は金も欲しいし、鶴にも乗りたい、つまり人間のあらゆる欲望を放下せず、同時に仙人になりたいとのことでした。以前の私の認識は貪欲な三男のようなものでした。

 書く過程で、自分の貪欲とおかしさが見えてきて、修煉の厳粛さと神聖さを認識するようになりました。人間の物を徹底的に放下してから、やっと人間の殻から抜け出すことができ、円満に向かうことができると、はっきりと認識することができました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/2/14/324077.html)
 
関連文章