「一心不乱に」 神韻チケットを販売して 学んだこと
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文/カナダの大法弟子

 【明慧日本2016年1月31日】私たちはクリスマス商品展示会に神韻チケット販売のブースを設けました。私は「一心不乱に」神韻チケットを販売し、執着を捨てることの重要性を学びました。

 昨日、ブースで一緒にチケット販売をしていた同修のAさんが、ある店で売っているサーモンはとても美味しいと言っていました。以前、他の同修からも美味しい、買いたいと聞いたことがあります。閉店する1時間前に、私も「サーモンを買いたい」と心の中で少し考えました。Aさんはそれを察してかすぐに「買いに行って良いですよ。こちらはもうすぐ終わるから」と言ってくれました。

 しかしその時、突然二つの単語「undivided attention(一心不乱に)」が脳裏にひらめきました。なぜかずっとはっきりと目の前に現れて、なかなか消えませんでした。この二語に対して畏敬の念が生じ、私は軽々しく行動できなくなりました。「ここへ来た以上、縁のある人を見逃してはならない。サーモンなど食べなくてもかまわない」と自分に言い聞かせました。

 しかし、心の中でまだ食べ物のことを完全に取り除いていなかったせいか、Aさんはまた好意から「早く行きなさい。ここは私一人でも良いから」と言ってくれました。私はやはり躊躇して、ブースを離れる勇気がありませんでした。

 その時、以前私たちが神韻を紹介した年配の女性がブースの近くにやって来て、神韻の小冊子を手にした別の2人と、何か烈しく言い争っているようでした。彼女らの声ははっきりと聞き取れませんでしたが、その中の若い人が「ノー」と言い続けているのが聞こえました。態度から見ても、彼は年配の女性の意見に激しく反対しているようでした。

 私は強い正念を発しました。3人はしばらく議論した後、最終的に女性が私たちのブースにやって来て、チケットを買うことに決めたと言いました。もしさっき私がここを離れていたら、縁のあるこの客を見逃していたかもしれないと気付き、私は驚いてしまいました。

 無事に女性にチケットを販売してから、Aさんはもう一度「早く行ってくださいね」と促しました。私は行くべきかどうかまた躊躇しましたが、しかし客を見逃さなかったし、チケットも売ることができたし、少しほっとした気持ちで私はやはり買いに行きました。その店に着いて見ると、安いサーモンは売り切れていたので、適当に2袋買いましたが、あまり安くありませんでした。ブースへ戻る途中突然、「こんなに食べ物に執着していて、たとえ買えたとしてもきっと美味しくないだろう」という一念が脳裏をよぎりました。

 家に帰って、買った魚は予想通りとてもまずかったのです。あの二つの単語「undivided attention(一心不乱に)」がどうしてあれほどはっきりと目の前に浮かんだのか? それは師父からのご啓示ではないか、とはじめて気がつきました。他の同修はよく「師父からのご啓示」と言ったりしますが、それに関して私はずっととても鈍感で(根本的に、頭に無神論の害毒がまだ残っていたのかもしれない)、これは紛れもなく師父からのご啓示だと分かった時、私は恥ずかしくて堪えられませんでした。常人社会においても、仕事をする時に専念することは基本的な教訓であり、修煉者として衆生を救い済度する際に、雑念や欲望を抱えたままで、どのようにして相手を救うことができるのでしょうか!

 時には、自分は今日どれだけ神韻の宣伝をしたのか、どれだけ「三退」を勧めたのかを計算して、苦労をしたのだからと思って満足します。100%の努力を払うととても疲れるので、一歩引いて1人や2人を見逃しても仕方がないと思ったりします。しかしその1人や2人にとって、大法弟子と出会うのは一生に一度の縁しかないかもしれません。では、私は今までにそのような衆生をどれだけ逃したのでしょうか? 考える勇気もありません。衆生を救う使命を担う大法弟子として、もしもベストを尽くしていなければ、それは私の罪ではありませんか?

 どうして修煉者が言った言葉が常人に対して効果がないのか、神の前で常人はただ神の思う通りに行動すべきではないか、どうして現実ではそうなっていないのでしょうか? 修煉者にまだ人心があり、言い出した言葉に人心がまだあるからです。『轉法輪』に「多くの人は練功する時に、正しくない考えをもっています。站椿をする時、手足が震え出すほど疲れているにもかかわらず、頭の中は休んでおらず、さまざまなことを考えています。『物価が上がりそうだから、少し買い溜めしておかなくちゃ。練功が終わったらすぐ買いに行こう。値上がりしたら大変だから』」と説かれています。そのような執着心があれば、言った言葉に力がなく、相手の(神韻チケットを買いたくない)執着を打ち破ることはできず、相手は同じく「私も早く○○を買い溜めしないと」と思うかもしれません。

 師父の『スイス法会での説法』を一緒に復習しましょう。「自分の目的を抱いて相手を変えようとして、或いは相手を説得しようとして人に話し掛ける時、あなたの話がいくら理にかなっていても、相手はそれを完全に受け入れがたく、しかも相手の心を打つこともできないと以前私は説いたことがあります。何故でしょうか? 実は皆さんに教えますが、その話の中にあなたの全ての思惟があるからです。皆さんは常人の中にいて各種の七情六欲があり、ひいては多くの執着があり、話したことの中に複雑な考えがあるから、話にそれほどの力量がなくなり、力が分散してしまったのです。更に、他人に何かを言おうとするとき、往々にして自分の観点に立脚しており、宇宙の法に合っているとは限りません。ですから、この点からいえばまた真理の力も欠けています。また他人に何かを話す時に、自分が傷つけられないように、自己を防護することも加えたため、つまりあなたが話をする時の目的も不純になったため、こうして話されたことには非常に重みがなくなりました。しかし、もし考えが本当に清らかで静かになることができれば、或いは執着心がますます少なくなり、雑念が少なくなった時、自分の話に力がついたと気付くのです。無為を説いた時に、構うべきではないことに勝手に手を出さないようにと言いましたが、それは何故でしょうか? あなたの話に力がつき始めた、力のある話は他人を変えることができます。正しいかどうかを問わず、あなたが他人を変えてしまえば、間違いを起す可能性があります。あなたの目に見えたのは表面的なことで、過去の因縁関係はあなたには見えず、真相が分からないのです。更に高い次元まで到達すれば、あなたの思想がますます清らかになり、あなたの考えから現れてきたもの、口にした話が非常にきれいになります。きれいであればあるほど、単一であればあるほど、宇宙の理に適うようになります。話したことも直ちに人の心まで届き、人の思想の深いところ、その生命の更なるミクロなところまで届くのです。なんと強い力なのでしょう?!」

 実は、Aさんが何回も「買いに行ってくださいね」と言った時から、私は悟るべきでした。どうしてAさんは何回も何回も言ったのでしょう。私に「早く魚を買いたい」という人心があったからではありませんか? もしも自分にその人心がなかったならば、「あの店のサーモンが美味しい」とか、「早く買いに行ってください」とか、そんな会話が私の前でされるはずは絶対になかったと思います。

 私たちは毎年、神韻のチケット販売に参与しており、学んだことがたくさんあります。私たちにこのような機会を授けてくださった師父に深く感謝いたします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/12/1/319895.html)
 
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