内に向けて探すことの素晴らしさ
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文/黒竜江省の大法弟子

 【明慧日本2015年9月7日】私は悟性に欠けているのではないかと思います。発正念をしても何も感じませんし、別空間の景色も見えません。最近ある出来事を通して、自我をなくして内に向けて探せば意外な結果がもたらされることを体験しました。

 今年の5月、指に炎症が起こり、医者の同修に簡単な手術をしてもらいましたが、手術後も指はなかなか治りませんでした。ある晩、指が又痛みだしました。零時の発正念を終えて私は内に向けて探し始めました。見つけた執着心を一つ一つ紙に書き留めました。たとえそれが小さな人心でも、もらさずにずっと書いていきました。そして、書いていくうちにいつの間にか指から何かが剥がれ落ちていく感じがしました。それは幻覚のようであり、現実のようでもありました。瞬時に指の痛みが引いたので、「自分の内に向けて探すことが正しかったため、師父が痛みを取ってくださった」と悟りました。

 私たちのチームの『明慧週刊』は皆が回し合って読んでいます。ある日、同修が「『明慧週刊』を私に回した」と言いましたが、私は受け取っていませんでした。しかし、彼女は自信を持って言ったので、私は少し怒り出し、「自分はもらっていない」と、説明をやめようとせず、家に帰っても怒りはなかなか収まりませんでした。その夜、師父の各地での説法を勉強している時、任意に開いたページに、「修煉は第一位のことです。先ほど話しましたが、あなたはそれを抑制できず、内に向けて探し、トラブルに遭ったら自分を探し、自らを改め、人心を取り除くことができなければ、修煉して神になるそのよくできた部分が生じません。あなたは修煉しているとは言えません。ですから、あなたは絶えず自分の修煉できていない部分を神に成就できるように修煉し、しっかり修め、厳しく自分に要求しなければなりません。これこそ修煉なのです。でなければ、何のために修煉するのでしょうか?」[1]という師父の説法が目に入りました。こういう時こそ、法をたくさん勉強することで、自分の中にある法にふさわしくない負の要素を取り除くことができると悟りました。

 それから、私は師父の『マンハッタン説法』を勉強しました。中で師父はこのようにおっしゃいました。「皆さんは今からも同じことになりますが、あなたが正しいかどうかに関係なく、この問題は一人の修煉者にとってまったく重要ではありません。言い争わないでください。誰が正しいか、誰が間違っているのかを強調しないでください。いつも自分が正しいと強調する人がおり、あなたが正しいのであって、間違っていませんが、それはどういう意味があるのでしょうか? 法に対する認識が高まったのでしょうか? 人心をもって正しいかどうかを強調すること自体が間違っています。なぜなら、あなたは常人のあの理で自分を量っており、常人のあの理で相手に要求しているのです。神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです[2] 師父の説法を読み終えると、自分の中にあった悪い物質がなくなり、自分の行動がいけなかったことに気づきました。私は修煉者の基準で自分を図らず、自我を強調しすぎていました。神がこのようなことをするはずがありません。そして、明日の学法の前にチームに自分のこの執着心を暴きだし、完全に解体しようと思いました。

 しかし、翌日の学法で、私が口を開く前に同修から「『明慧週刊』は別の部屋に置き忘れていた」と謝ってきたのです。このことを通じて、内にむけて探すことで、異なった結果が表れると知りました。これは、私に執着心をなくさせようと、師父が按排された試練でもあるということに気づきました。師父に感謝いたします。

 他の同修から見て以上の二つの出来事は普通のことかもしれません。しかし、私にとっては非常に大事なことです。このことを通じて大法の素晴らしさを知り、師と大法を信じる自信を今まで以上に増加させてくれました。師父が説かれた「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」ということを本当に体験しました。

 師父に感謝いたします。同修に感謝します。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『各地での説法七』「米国首都法会での説法」
 [2] 李洪志師父の経文:『各地での説法十』「マンハッタン説法」
 [3] 李洪志師父の経文:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/8/27/314744.html)
 
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