「修煉者の忍」で家庭の難や対立を解消する
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2016年11月27日】中秋節のこの日、2010年8月15日、大学を卒業してから地方で就職した子供たちが、2年ぶりに里帰りしました。私と夫はとても嬉しくてご馳走を用意して、ひさびさの家族団欒の中秋節を過ごそうと思い、楽しみにしていました。

 夫はとても熱心で、しかも、どんな仕事でもこなせる器用な人です。その日、家でゆっくり休もうと思っていましたが、急用のため朝早く友達に呼ばれ出かけました。午後3時頃、私は同修から電話をもらい、技術者の同修が家に来ているから、私にも来てほしいと言われました。私のパソコンにトラブルが起き、OSを再インストールする必要があって、先週すでに1回インストールしてみましたが、うまくいきませんでした。技術者の同修が来るのは容易ではないため、それに、同修の家の賃貸契約はもうすぐ期限が切れ、今度どこに引っ越すかも未定で、技術者の同修と次の会う時間と場所が決められないという事情がありました。しかし、今日はもう遅いし、しかも、片道1時間半もかかりますので、私はすこし躊躇しました。でもやはり行くことにしました。パソコンを同修の家に届けてすぐ戻れば、技術者の同修が修理出来たら、翌日取りに行けばそんなに遅くはならないだろうと思いました。

 私は子供に夕食の材料を用意してもらい、自分はパソコンを持って出かけました。時間を稼ぐために、途中までタクシーを頼んで、それからバスを2回乗り換え、約4時頃、同修の家の近くに到着しました。安全の距離内で、家に電話をすると、子供から「お父さんはもう帰って来ているから、お母さんも早く帰って来てね」と言われました。私は「分かった、できるだけ早く帰るからね」と言って、携帯電話の電源を切り電池を外しました。

 同修の家に行くと、技術者の同修は真相紙幣を作製している最中で、私に「教材を見ながら、自分でOSのインストールをして、分からなければ聞いてください」と言いました。こうして、私の最初の思惑が外れ、すぐ家に戻れなくなりました。そして、安全のため電話もかけられず、その後、一心不乱に作業をして時間を忘れ、終わった時はすでにもうすぐ8時になるところでした。

 同修の家から出て安全の地域に着くと、携帯電話を見たら、たくさんのメールが一気に飛び込んできました。夫から、子供から、それだけではなく、妹からのもありました。私はすぐに折り返し電話をしたら、夫の怒りの声が入って来ました。「今どこにいるんだ! どうして携帯電話の電源を切ったんだ。連行されたのかと思って心配した。どうして一言家に電話しないのか!」と怒鳴られました。妹からもしきりに電話がかかり、私を非難し責めて「どこまで帰って来ているのか。いつ家に帰れるのか」と聞かれました。帰り道はずっと電話が鳴りっぱなしでした。

 修煉者にとって、偶然なことはありません。これは心性の試練で、心性を高めるチャンスだと思いました。私は気持ちを落ち着かせて、今日のこの事を考えてみました。大法弟子が大法のことをすることは、どんな状況の中でも、当然なことで間違いありません。しかし、時には常人の気持ちも考えるべきだと思いました。私は大法修煉して心身とも恩恵を受け、夫も私のことをとても支持し真相も分かっています。私が大法のことをしても、彼は決して干渉しないし、生活リズムだって、発正念の時間に合わせて調整してくれて、その時間になれば、私がやっている途中のことをいつも代わりにしてくれます。同修に呼ばれる時だって、たとえ家に用事があっても出かけられるし、この十数年間、彼も多くの圧力に耐えてきました。それなら、今日の出来事は、一体私のどの人心を取り除かせようとしているのでしょうか。

 内に向けて探せば、やはり私の「人に言われたくない心」に狙いをつけて来たのではないかと思いました。仕事の関係で私はよく夫を責め、いつも自分が正しいと思っていました。普段、夫に私のことを指摘されると、修煉者として「殴られても殴り返さず、ののしられてもやり返さない」[1]ことを知っていながらも、しかし、心の中では、やはり悔しい、納得しない、なんとか理由を探して弁解したいと思っていました。この前、この「人に言われたくない心」に対して、心性の関門がありました。しかし、それはあくまでも「常人の忍」で我慢しましたが「修煉者の忍」の境地には到達していませんでした。師父は「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[2]と説かれていました。そう考えれば、私の忍はまだまだ修め遂げていないことが分かりました。師父は私に新たなチャンスをくださいました。今回、私は必ずこの関門を乗り越えなければならないと思うと、心の中は平静となりました。

 早く家に戻るため私はタクシーに乗り、それからバスに乗り換え、夜9時にようやく家に着きました。夫は中から鍵をかけていました。子供がドアを開けてくれ、家に入ってから夫に心から詫びました。彼は私を見ると、たちまち怒りを爆発させ「俺に謝るな! こんな生活はもうたくさんだ。子供がやっと帰って来たのに、しかも、祝日でもお前は外に出かけ帰って来ないのか。遅くなってもいいと言ったか、電話ぐらいしろ。お前の居場所が分かればいいことだろう。どうしても直したくないのか。(1週間前、遅すぎた場合は電話をすると約束した)このままでは、お前のものを全部投げ捨てるぞ。(当時家には2台のプリンターがあった)一緒に暮らせないのなら、分かれてもいい!」と言って、ご馳走の盛られた皿を投げつけました。

 この過程で私の心は少しも動じないで、とても落ち着いていて、辛い思いもなければ弁解しようともせず、怒りも恨みもありませんでした、彼が言うままにしていました。同時に、私は黙々と発正念し、彼の背後の別の空間の彼を操る邪霊を一掃するようにしました。普段、夫の性格はけっしてこうではないからです。私の平静で、しかも反論も弁解もしない様子を見て、夫はひとしきり怒ってからドアをバタンと閉めて出ていきました。私は子供について行くようにと合図しました。子供はすでに料理を用意しており、私はそれを温めなおし、地面に散らかったものを片付け、30分後、夫は機嫌を直して帰って来て、落ち着いた様子でしたが、黙って何も言わずベッドに横たわったまま、食事に誘っても食べてくれませんでした。「今日は、私が悪かったわ、あなたに何も言わないのが悪かったわ。心配をさせてごめんなさい。ご飯を食べないと体に良くないわ。今日、悪かったのは私ですから、夕飯を抜いて反省します」と謝りました。その後、夫は子供と一緒に食事をし、私は本当に食べませんでしたが、まったく空腹感はありませんでした。

 一晩お互いに黙っていました。翌朝、夫は何事もなかったように、私達家族揃ってお土産を持って、楽しく爺ちゃんや婆ちゃんの所に出かけて行きました。師父のご加持のもと、私は「修煉者の忍」で避けられそうもない家庭の対立を解消しました。考えて見てください。もし、私が同修の安全を理由に自分の弁解をすれば、その結果はどうなるか、とてもこのままでは収拾がつかないだろうと思いました。このことでまた、大法の偉大さを深く体得しました。

 大法弟子は常人社会で修煉しています。家庭はとても重要な修煉の場所で、しかもとても素晴らしい修煉環境です。修煉の向上に最も直接的な役割を果たす場所だと思います。私たちは様々な執着心を、社会の中、或いは同修の間で、ごまかそうとしがちです。しかし、家庭では、余すところなくすべてを暴露し、四六時中一緒に生活する家族の間に、何もかも晒しているのです。師父もよく家族の人の口を利用されて、私たちに啓示してくださるのです。同時に家族は私達の鏡となり、私達の問題をそのまま写し出してくれます。ですので、様々な家庭のトラブルが突然起き、逃げたくても逃られないのは、師父がそれを利用して、私達に早く修煉を高めさせるためなのです。

 師父が私たちに次のように説かれています。「トラブルに遭ったら、自分が間違ったかどうかに関わらず、このことに関して私に間違ったところがあるのか、本当に自分が間違ったのではないかと自らを考え、皆このように考え、最初の念は自らを考え、問題を考えているのです。このようにしない人は本当の大法修煉者ではありません。これは修煉上の最も有効な手段であり、大法弟子が修煉する際の特徴です」[3]

 多くの大法弟子が心性の関門を乗り越える経験から、修煉者はトラブルの前で、穏やかな心を保ち、何事も他人を考慮し、どんな状況の中でも無条件に内に向けて探し、本当に怒らないで、辛く感じないで「修煉者の忍」をやり遂げることができることが、実証されました。このようにすれば、魔難は大法によって解消され、悩みは雲散霧消(うんさんむしょう・雲や霧が消えてしまうように、物事が一度に消えてなくなる)となるのです。反対に、「常人の忍」しか出来なければ、小さな摩擦でも、大きな問題を引き起こしてしまうかもしれません。「内に向け探す」ことは、本当に師父から頂いた大切な宝物です!

 個人の体得です。不適切な所は、同修達の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』
 [2]李洪志師父の著作:『精進要旨』「忍とは何か」
 [3]李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/18/337687.html )
 
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