明慧法会|苦しみを舐め尽くし衆生を救う
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文/山東省の大法弟子 香蓮

 【明慧日本2017年1月11日】

 師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 第13回明慧ネット法会の機会を借りて、自分の修煉過程を師父にご報告するとともに、同修の皆さんと交流したいと思います。法に合致しないところがあれば、慈悲深いご指摘をお願いします。

 修煉は本当に素晴らしい

 私の修煉体験を振り返ると、法を得ることができたのは、すべて師父が悟らせてくださったからであり、私を一歩一歩と率いてくださり、さらに私の信念を一歩一歩加持してくださいました。そして狂ったような迫害が起きた時でも、師を信じ法を信じることができました。

 私は1997年に法輪大法の修煉を始めた農村の70歳の弟子です。それまでの50年間は他の農村の女性と同じように嫁いで子供を産み、勤勉に稼ぎ苦しみを舐め、50歳になると、体を壊し、腹膜炎、腎炎、気管支炎、腰椎間板ヘルニアなどの病気にかかってしまいました。1996年の麦の刈り入れの季節に、畑に行った時、足腰が痛くて地面にへたへたとうずくまってしまい、夫は麦を刈るための車で私を家に連れ帰りました。

 1997年の麦の刈り入れの季節の前、隣の家に行って靴を借りて息子のために靴を作ろうと思いました。隣の家に行くと、『轉法輪』という本が目に入りました。隣人は私に「この本は佛を修めるための本です。縁のある人が読むとみんな素晴らしいと言いますが、縁がない人が読むとだめなのです」と伝えてくれました。私は1年も勉強したことがなく、字は数文字しかわからなかったのですが、それでもその本を手に取ってちょっと見てみました。まず師父の写真を拝見して、「どうしてこんなに見覚えがあるのだろう?」と思いました。さらに中の文字を見てみると、すごいことに、本の中の字がすべて跳ねていました。「この本の字はどうして跳ねているのだろう?」と不思議に思いました。ほとんどの字を知らなかったのですが、それでも読んでみると、1ページ読み終わらないうちに、今度はあちこちが回転しているように感じ、体の中も外もみな回転し、部屋も回転していましたが、めまいを起こしたわけではありませんでした。私は驚いてその本を無造作において「だめです、だめです。この本を少し読んだら、どうしてあちこち回転するのですか?」と言いました。

 家に帰った後、さきほどの本を読んだ時の感覚を考えながら「あの本は何の本だろうか? どうしてあんなに不思議なのだろうか?」とずっと思案していました。そして我慢できなくなり、また隣に行くと、隣人が「あなたがもし学びたいなら、前の家のxxさんのところに行けばいいです。麦の収穫が終わってから、xxさんの家で学ぶことができますよ」と言いました。

 麦の取り入れを終えて、私はxxさんの家に行きました。数人の人が丸く座りながら本を読んでおり、私はいくつかの字しかわからなかったので、その人たちが読むのをそばで聞いていました。ある部分は聞いていてもわかりませんでしたが、聞いているうちに気持ちが晴れ晴れしてきて、気分がよくなり、まるで何年も迷っていた子供が母親を見つけた時のように、涙がとめどなく流れました。そして、心の中で「私には師父がいらっしゃる。師父に従って家に戻らなければならない」と思いました。

 1998年の春、市内のある大企業が輔導員の学習コースを組織したと聞きました。私は心中もどかしく、羨ましくて行きたかったのですが、自分には資格はないと感じていました。なぜなら私は字も読めず、世間というものを見た事もなかったので、みんなは私を行かせないだろう、と思ったのでした。しかし、心の中ではずっと行きたいと思っていました。その日がやって来て、もともと行くはずだった同修が突然用事で行かれなくなったので、輔導員に「私が行くことはできますか?」と聞いてみました。すると、輔導員は「いいですよ。誰が行ってもいいのです」と言ってくれました。そこで、私はぼろ布団を背負い、旅費を持ち、夫に駅まで送ってもらい、バスに乗って遠く離れた市内に向かいました。バスを降りてから、学習する場所までは遠く、道を聞きましたが、今まで家を離れたことがなく、ましてや市内に入った事などなく、道を聞いた人は行き方を教えてくれましたが、頭がぼんやりしてしまい、どうしてもわからず、布団を背負いながら指さした方向に向かって歩いて行き、曲がりくねった道をずっと歩いて行くと、なんと学習コースが開かれる場所にたどり着き、自分でも「本当にすごい」と感じました。

 その場所につくと、いろいろな人がいて、定年退職した親方、定年退職した幹部、退役軍人、さらに町の幹部、さらには私のように農村からやって来た人などの老若男女がいました。市党委員会で働いているお姉さんは、私たち農村から来た人が貧乏で大したお金を持っていないことを知っていたので、いつも家から私たちのために食べ物を持ってきてくれました。このお姉さんは尊大ぶったところが少しもなく、私のような字が読めない農村の人々をバカにすることもありませんでした。このようなお姉さんと一緒に座って大法を学ぶことができるのは本当に今まで考えた事もなく、本当に幸福を感じ「暗くなるな、暗くなるな。もしこのようにして学べるのであれば、いつも一緒に学法すればそれでいい」と心の中で待ちわびました。

 法を学ぶときの体験を交流していた時、私と同じように字が読めなかった年配の同修が字が読めるようになった不思議な経験を交流しました。それは私にとって大きな啓発でした。その同修はある時、本を抱えて眠り、眠っているうちにお腹がすき、突然夢の中で大きなどんぶりに入った麺がテーブルの上に置かれていたので、どんぶりを持ち上げて食べたそうです。どんぶりを持ち上げてみると、麺が字に変わり、一つ一つの字はどんぶりの中で幾重にも重なり、どんぶりを下ろすと、やはり中には麺が入っており、持ち上げるとまた字に変わりました。変だと思い、最後に「私は字が読めないから、このどんぶりの中の字を食べてみよう」と思い、どんぶりを持ち上げて食べ終わると目が覚めたそうです。目が覚めてからもやはり変だと思い「自分が食べたのは一体、麺だったのか、それとも字だったのか?」と思いました。さらに不思議なことは、『轉法輪』を手に取って見た時、中の字がすべて認識できたそうです。

 それを聞いて本当にうらやましくなりました。私も字を知らなければならず、師父は私にも字が読めるようにしてくださるはずだと思いました。

 講習会では、自分が急速に向上していると感じ、毎日ロケットに乗っているかのように、ぐんぐん上に向かって飛び、本当に一層一層上に向かって上がって行きました。体全体が変化しているように感じ、心を入れ替えて真人間に生まれ変わったようでした。その数日間は、人生の中で最も重要で、最も素晴らしい日々でした。

 家に帰ってから「こんなにもすばらしい功法を、もっと多くの人に知ってもらい、もっと多くの人に恩恵を受けてもらうために、法を伝えに行かなければならない」と思いました。私はあまり人の家を訪ねたりすることはありませんでしたが、時には同修と一緒に、時には自分1人で隣近所の100軒ほどの家や周囲の村などに行って法を伝えました。誰かがトウモロコシの皮をはぎ取っているのを見たら手伝い、誰かが落花生の皮をむいているのを見たら手伝い、人の仕事を手伝いながら、この法がどれだけ素晴らしいかを伝え「全身の病気が皆良くなり、いつ良くなったのかすらわかりませんでした。以前、私は足が痛くて歩けず、さらに腹膜炎と腎炎を患っていたので、以前は毎年2回入院しなければなりませんでしたが、今はよくなりました。私の家は子供が多く、いつも学校まで同伴して授業を受けさせ、家族5人を養う田畑を、今は私1人で作付けしています。以前は体中が病気でしたが、今は体中に力がみなぎっています」と言いました。本当に「大法は洪く伝わり、聞いた人はこれを尋ね、得た人はこれを喜び、修める人は日をもって多くなり、その数は計ることができません」[1]でした。

 私と同修が熱心に法を伝えたので、何百という人が大法を学びに来ました。

 そのころは本当に法を学びたかったので、夜は学法グループへ行って集団学法し、時間があれば自分で学び、知らない字があれば子供や夫に聞きました。家の中の仕事や田畑の仕事を手早く片付け、やり終えると法を学ぶことができました。こうして半年たたないうちに、『轉法輪』と師父の全ての説法を完全に読めるようになりました。

 ある日の夕方、庭の上空に大法輪があり、家の庭を覆っていました。家の屋根と同じぐらい高く、九つが時計回りに回転し、九つが反時計回りに回転していました。私は早く見に来るように夫に向かって叫びました。しかし、夫はずっと見ていましたが、何も見えない、というのです。私は「卍符がこんなにはっきりとしていて、黄、青、赤にたえず色を変え、こんなにきれいなのに、どうしてあなたには見えないのですか?」と言いました。法輪は大体5、6分間、現れていましたが、夫には見えませんでした。その時、私は「こんなにはっきりと見えているのに、どうして夫には見えないのか?」と考えました。その後、法を学んで知ったのですが、師父は大法弟子に法輪を現わされるのであり、それ以後、いろいろなところで法輪が回転しているのをよく見るようになりました。

 また、ある日の朝、急いで煉功に行き、着いてから持って来た斧を落としてしまったことに気づいたのですが、私は気にとめませんでした。抱輪の動作をしていた時、眼を閉じていると、斧を落とした場所がはっきりと見えました。煉功から家に帰る時、斧はやはりその場所にありました。

 ある時、夜に学法に出かけた時、額から強い光がでて、懐中電灯のように道を照らしました。この時になってはじめて「師父が私の天目を開いてくださった」とわかりましたが、師父は「天目が開いたまま修煉するのも難しく、心性がいっそう制御しにくいわけです」[2]と説かれました。その時は、法に対する理解が浅く、心の中ではまだおびえており、自分が妨害を受けることを恐れたので、「師父、早く天目を閉じてください。私は何も見ませんが、師父がおっしゃることはすべて信じます」と申し上げました。それ以後、見える物は少なくなりましたが「たとえ天が崩壊し地が陥没しようとも、師父と大法に対する大きな岩のように堅固な心は動揺しない」と決めました。

 魔難に遭い、意思は金剛の如くになる

 師父は「大覚は苦を畏れず 意思は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」[3]と説かれました。1999年7月20日、江沢民政治集団が狂ったように大法を迫害し始めて以来、町役場や警察署の要員がほとんど毎日家に来て嫌がらせをし、時には1日に3回も来て、修煉を放棄するように私に迫りました。9月のある日、私たち7人が同修の家で集団学法をしていた時、町役場と警察署の人員によって全員不当に連行されました。警官たちは私がリーダーだと思い、町の規律検査課の書記の指揮の下、私に各種の拷問を加えました。

 警官たちは師父の写真と大法書籍を私に持たせ、足をまっすぐにしてコンクリートの床に座らせ、手でびんたを加え、拳で頭を叩き、革靴を履いた足で私の体を蹴飛ばしました。私は殴られて両目から火花が飛び出し、全身が紫黒色になりましたが、気絶するまで私を殴り続けました。私が意識を失ったと見ると、警官たちは水をかけて私の目を覚まさせました。

 警官たちはなおも私をコンクリートの床に座らせ、両手を背中にまわして手錠をかけ、足で私の背中を踏みながら、手錠をかけた両手をぐいと力を入れて頭のてっぺんに持ち上げ、痛くて私がショック状態になってやっと手を放しました。さらに、警官たちは蛇を1匹捕まえて来て、私の首にいれました。私は全身に鳥肌が立ち、蛇は私の体をはいずり回ったので、ひと言も言い出せないほど気持ちが悪く、10分以上経ってから、警官たちは蛇を持って帰りました。

 これらの警官たちは、町の規律検査課の書記の指揮の下、夜は屋内で私を殴り、昼は裸足で竹林の周りを走らせたので、足がぼろぼろになり、一歩ごとに血の跡がつき、走れなくなって歩みを止めると、竹の棒で殴り、竹の棒が何本も折れ、4日連続して苦痛を受けました。

酷刑演示:吊铐毒打
拷問の再現:吊るし上げてめった打ちにする

 どのようにしても私が屈服しないのを見ると、警官たちは県の留置場から用心棒を雇いました。聞くところによると、この用心棒は全県で最も残忍な用心棒で、誰であろうとこの用心棒の手にかかると、言われたことを何でもやってしまうことが保証されているようでした。用心棒たちは私の両足を揃えて錠をかけ、両腕をまっすぐにして「一文字型」にして、手錠を蒸気を排出する管につなぎました。私はこの用心棒に「私とあなたは何の恨みもなく、あなたを怒らせていないし、また悪いこともせず、私はただ自分の信仰に励んでいるだけなのに、もしあなたが私を殴るなら、あなたは将来、惨めな死に方をするでしょう」と言いました。すると、その用心棒はぞっとするような笑いを浮かべながら「私のことは放っておいてくれ! 私はお前を殴るためにここに来たのだ! 私の手にかかって殴られて屈服しなかった者はいない」と言いました。

 この用心棒のなぐり方は特別に痛く、特別につらいものでした。私を殴打して気絶させ、再び水をかけて目を覚まさせ、また続けて殴りました。再び目を覚ました後、用心棒は私に「他のものを学んではダメなのか?」と言いました。そこで私は「他のものは学びません。私はこの大法を学びます。なぜなら李洪志師父を信じ、この大法を信じているからです」と言いました。すると、その用心棒は引き続き私を殴りました。私の頭は殴られて歪み、持ち上げられなくなると、その用心棒は髪の毛を引っ張って私の頭を持ちあげ、「おまえはもうすぐ学ばないと言うだろう」と言いました。私は弱弱しいながらも確固とした声でその用心棒に「私は死ぬはずがないので学びます」と言いました。すると用心棒の手がわなわなとふるえ出し、手を緩めるとくるりと向きを変えて行ってしまい、その後、その用心棒に会うことはありませんでした。

 師父は「修煉者がたとえどのような情況にあっても生死の念を放下できたならば、邪悪は必ず恐れ慄いてしまいます」[4] 「修煉とは実に難しいものです。天が崩れ、地が陥没し、邪悪が狂ったように迫害し、生死に関わるときであっても、依然、あなたの修煉の道を確固として歩み続けられるところに難しさがあります。人類社会のいかなる出来事も修煉の道を歩むことを阻むことはできないのです」[5]と説かれました。

 拷問では大法弟子の信仰を変えられないことを警官たちが知ると、今度は精神的に私を辱めようとしました。警官たちは私とその他2人の同修を家畜用の貨車にくくりつけ、首に縄をつけ、後ろの足場にゆわえつけ、両手を背中にして手錠をかけ、前方には白い紙に黒い字で「法輪功の張本人」と書いた大看板がありました。2人の同修も私と同じようにされており、私たち3人を車の上に括り付け、町から村まで街中を引き回して辱めました。引き回しが終わった後、身代金として夫から2千元を奪い取り、やっと私を家に帰らせました。

 2002年3月末のある日、ちょうど昼寝をしていた時、県の610弁公室と国保大隊の警官が家に入ってきて、私をベッドから引っ立て、パトカーに引き入れ、県の洗脳班に連行しました。その時、私は秋物の服にステテコと上靴しかはいていませんでした。その夜、警官は洗脳班の庭にある青桐の木に私をつなぎました。私は木を抱えるようにして手錠で繋がれ一夜を過ごしました。北方の3月の夜はまだ寒く、門衛は綿入れの外套を着て宿直に当たっていました。それに比べて、私は秋物の服にステテコしかはいていなかったので、凍えて全身がぶるぶる震えました。私は1週間以上拘禁されてから家に帰され、さらに5千元の身代金を取られました。

 2002年の冬、飼っているメス豚が子豚を生みました。あまり寒いので、子豚が凍死してしまうのではないかと思い、ブタ小屋の中で薪を束ねて火を点け、豚のために火をおこしました。豚の助産に忙しくしていたところ、誰かが戸をたたいているのが聞こえました。外へ出てみると、町の規律検査課の書記が取り巻き連を連れてやって来ていました。そこで私は「何の用ですか?」と聞きました。すると、規律検査課の書記は「あなたの豚小屋から火がついて煙が立っているのを見た人がおり、家で焼身自殺をしたのではないかと思い、見に来た」と言いました。これを聞いて、心の中で「今回はあなたたちを許すわけにはいかない」と思いました。

 私は規律検査課の書記を豚小屋まで引っ張り、私が何をしていたのかを見せました。規律検査課の書記は一目見ると理解し、豚小屋の外へ出て行きました。私は規律検査課の書記たちを追いかけながら、大声で「こんなに寒いのに、あなたたちの家で両親はストーブに火をおこさないのですか? 妻子はストーブに火をおこさないのですか? 家でストーブの火をおこして暖まったら家で焼身自殺することになるのですか? 天安門の偽りの焼身自殺事件もこのようにして作り上げたのですか? あなたたちはデマを流すだけでなく、一般人をいじめていますが、これは人間としてやるべきことですか? 一日中、お金を無心するか、そうでなければ人を殴り、あなたたちには罰が当たるでしょう! 天は見ています! これからは私の家に来ないでください!」と言いました。私は隣近所にも聞こえるように大声で規律検査課の書記たちに警告すると同時に、天安門焼身自殺がでっち上げであることを規律検査課の書記たちに伝えました。それ以降、町の役人が私の家に来ることはなくなりました。

 苦しみも困難も恐れず、衆生を救う

 1999年、中国共産党が法輪功を迫害して以来、私は一度も止めずに真相を伝え続けています。昼間は真相を伝える資料を持って市場へ行き、よく知っている人に会えばその場で資料を渡し、さらに大法が迫害されていることを伝え、李洪志師父は人々に良い人間になるための道理を説いているだけだと伝え、テレビで言っていることは全てデマだと伝えました。その時はまだ人に「三退」を勧めていませんでしたので、私は大法が迫害されている真相を人々に伝えました。そして夜は真相を伝える貼紙を貼り、資料を配り、周囲にある村はほとんどくまなく回りました。

 その頃、中国共産党の大法弟子に対する迫害はきわめて深刻だったので、夫はおびえ、夜に私を外出させないようにし、門に鍵をかけたので、私は壁を登って外に出ました。ある年の冬、小雪が舞う中で真相を伝える貼紙が届いたので、私と同修は夜に約束して貼りに出かけることにしました。夜に夫が眠った後、こっそりと庭に出て、塀の上から隣の庭に行き、隣の家の門を開けて外に出て行こうと思いましたが、塀の上から足を滑らせて転んで足首を捻挫してしまい、その後、半月近く外出することができませんでした。それから夫が門を閉じてしまうことはなくなりました。今回、足を挫いてしまったことが、かえって外出して真相を伝えに行くための条件を作り出したのでした。悪いことがよいことになりました。

 『共産党についての九つの論評』が発表された後、全面的に真相を伝え「三退」を勧める段階に入りました。師父は「特に中国大陸の大法弟子は、一人一人みな表に出て真相を伝え、あらゆるところに真相が伝わるようにし、人のいるところに漏れることなく真相を伝えるべきです」[9]と説かれました。私もすぐに真相を伝え「三退」を勧める隊列に加わりました。

 私は字が書けないので、始めは三退した人の名前を三つか五つは覚えることができましたが、それ以上多くなるともう無理で、家に帰って夫に三退した人の名前を書いてもらいましたが、時には夫が書きたがらないことがあり、そこで、私が知らない文字をどのように書くのかを聞くと、夫は私に教えてくれました。夫は学校で教師をしているので、質問していくうちに夫の教える習慣が出て来て、どのように書くかを私に教えてくれたのでした。私が心を込めて学んだので、私の記憶力がよいとほめてくれました。しかし、私の記憶力が良いのではなく、師父が私を助けてくださっているからだということを、私は知っていました。

 街で「三退」を勧めている時、私は字を書けないので、三退した人に自分で名前を書いてもらいました。時には、本当に字が書けないので「師父、三退させても字が書けないので、いつも人を探して書いてもらうのですが、これでは面倒ではありませんか? こんなにもたくさんの字は書きとめなければ忘れてしまいます!」と師父に助けをお願いしました。ある時、師父に助けをお願いしながら筆を持ち上げると、まるで誰かが私の手を持って字を書いているかのように、筆が勝手に字を書き、家に帰って夫に尋ねると、書いた字はすべて正しかったのでした。

 しばらく経たないうちに、本当にたくさんの字が書けるようになりました。しかし、時には正しく書けないこともありました。ある時、「三退」名簿を、インターネットができる同修に預けたところ、その同修が一つの字を指差して「はて、これはなんという字ですか?」と聞いてきました。私は自分で見てもなかなかその字を見分けることができなかったのですが、なんと、それは私が自分で「作ってしまった」字だったのでした。同修は優しく、そして率直に「あなたは倉頡(そうけつ ・中国の古代に文字を発明した伝説上の人物)のように字を作ることができますね」と言いました。

 ある時、真相を伝え「三退」を勧めに行った時、紙を持ってきていなかったので、三退した人の名前を腕に書き、腕がいっぱいになると足に書き、体中が名前だらけになり、家に帰ってからその名前を紙に書き、インターネットができる同修に預けました。その日、私が袖を引っ張ったり、ズボンのすそをまくりあげたりしながら、絶えず字を書いているのを夫が見て変に思ったようで「何をやっているのですか?」と私に尋ねました。そして私を見るなり、腕と足一杯に字が書かれているのを見て、夫は笑いながら「私はずっと学生に教えてきたが、あなたのようなすばらしい学生に会ったことがない」と言いました。私は「私は大法弟子ですから、どうしてあなたの学生と私を比べることができるでしょうか?」と言いました。

 責任者は「(江沢民は)ひどいので、告訴すべきだ」と言った

 去年、江沢民を告訴してから、中国国内の多くの大法弟子が騒ぎを起こされ、ある大法弟子は留置場や洗脳班に不当に拘禁され、ある大法弟子は恐怖心のために路頭に迷いました。「今はどんな状況になっているのか、私はまだ中国共産党を恐れているのか?」と思いました。

 私の江沢民に対する告訴状は県内で差し押えられていました。ある日、県の検察庁と裁判所の人が家に来て「回訪(訳注:江沢民を告訴する訴状を提出した法輪功学習者の家に行き検問すること)だ」と言いました。検察庁と裁判所から5人の人が来て、ビデオレコーダーを肩に掛け、家に入ると凶悪そうに「江沢民を告訴したのか」と私に聞きました。そこで、私は自信を持って「はい、告訴しました。彼は私を迫害したので、私には彼を告訴する権利があります」と言いました。そして、迫害の過程を検察庁と裁判所から来た人たちに聞かせました。私は「いつもあなたたちに真相を伝えようと思っても会えないのに、今日はあなたたちの方から会いに来てくれているのだから、私はあなたたちを救わなければならない」と思いました。そこでこの機会に乗じて、検察庁と裁判所から来た人たちに天安門焼身自殺がでっち上げであり、「三退」すれば平安を保てることを伝えました。検察庁と裁判所から来た人たちは三退しませんでしたが、真相を聞いて理解した人もいました。帰る時、責任者と思われる人が私に「(江沢民は)ひどいので、告訴すべきだ」と言いました。

 後で聞きましたが、県の裁判所と検察庁の人が来たのは私の家が1軒目で、私の家1軒だけに寄って帰って行った後、裁判所と検察庁の人は他の学習者の家に「回訪」に行かなかったようでした。

 それからしばらく経ったある日、町の幹部と警察署の警官がまたきました。先頭にやって来たのは警察署長で、家に入って来ると行儀よく「型どおりに行う公務ですから、型どおりに行う公務ですから」と言いました。しかし、型どおりに行う公務に関することは何も言いませんでした。そこで、この機会をつかんで、警察署長たちに「薄煕来、周永康、李東生は大法を迫害した罰が当たったのであり、全世界の二十数万人の人が実名で江沢民を告発しており、アジアでは百万人の人が江沢民が法輪功を迫害したことを通報しています」と伝えると、警察署長たちは静かに聞いて何も言わず、しばらく座っていましたが、その後帰って行きました。その後聞くところによると、その日は私が江沢民を告訴したために洗脳班に連れて行こうと思っていたそうですが、私の家で座った後は、どうしても何も言葉にできなかったようでした。そしてこの数年、警察署長たちはすでに何度も私から真相を聞かされました。

 その日、数百人分の「三退」名簿をインターネットに載せてもらうために街の同修に預けたところ、この数年私が全部で何人三退させたのか、と同修が聞いて来たので「覚えていません。ただわかっているのは、この数年、毎日四つの市場に行き、真相を伝え、三退を勧めました。状態が良い時は毎日30人から40人を三退させ、状態がよくない時は毎日10人から20人を三退させ、師父から三退を勧めるよう言われてから、雨天でも決行し、今まで止めたことはなく、これは今月私が三退した人の名簿です」と言いました。

 自分の修煉体験を思い返してみて、いつも子供たちに「私の体験は1冊の本にして書くことができるので、いつか書きますが、誰か読んでくれるかな?」と言いました。すると、子供たちは「それなら法輪功が冤罪をそそいだ後まで待たなければならないよ」と言いました。実際、私は「師が法を正すことを手伝う私たちの経験は、他の空間で正しい神が覚えており、師父もずっと私たちを加護してくださっており、私たちの厳しさと辛苦をご存じなので(師父は毎回、説法で、大法弟子の皆さんご苦労様、と挨拶してくださっている)、それは私たちにとって最大の光栄だ」ということを知っていました。

 実際、師父が最もお辛いことはもっとよくわかっており「大窮救わんとし天法を伝ひ 衆生の業一身もって当る 無量の衆生の業巨難と成り 青糸斑白して人体傷す」[10]、毎回このお言葉を読むたびに「弟子のため、衆生のため、師父に苦労をおかけしてしまいました」と落涙しました。私は「私たちが心を勇猛にして修業に励み、三つのことをしっかり行い、より多くの衆生を救い済度することこそが、師父に対して最高に報いることだ」ということがわかりました。

 師父のご恩に感謝いたします!

 同修の皆さん、ありがとうございました!

 合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「師を拝む」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「正念正行」
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」
 [5] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「道」
 [6] 李洪志師父の詩:「洪吟二」「何を恐れる」
 [7] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「快講」
 [8] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「大法の徒 宋詩」
 [9] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「人心を放下し、世の人々を救い済度する」
 [10] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「還 原」

 (明慧ネット第13回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/8/337141.html)
 
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