文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年9月27日】長期にわたり私にはずっと非常に重い人心がありました。それは他でもなく自分がすばらしいと思う人心で、はっきり言うと自分の心から魔が生じることでした。
この問題は以前から見つけていましたが、ずっとそれを取り除くことができませんでした。私自身も努力してそれを取り除こうとしても、ときにそれを認識して、少し削り取る程度でした。同修に言わせれば、まったくそれを取り除いていないということです。私は罪をなすりつけられたような思いでした。なぜなら、すでに努力して取り除いたと思っていたからです。
ある時、師父が巧みに按排された偶然の機会に、自分の心の根源が見えてきました。それは私がひとつの文章を完成させるためにある文章が必要になり、それを読みました。それは、他人の不足についてのものでした。繰り返して探している内に、自分の問題が見えてきました。私は驚きました。私の人心の根源はこのように生まれたのだと、はっとわかりました。その時、私は非常に長い間、良くなかった状態が消えたことを感じました。
私は修煉してまったく別人のように変わりました。常人社会において私は家庭や社会で非常におとなしかったのです。なぜなら、自分には何の取り柄もないと思っていたからです。人々はみな自分に合う仕事が見つかったと言うのに、私は自分に合う仕事を見つけたことがなかったのです。私にはいかなる能力もなく、自分は食べることができるだけでよいと思っていました。しかし、私の心のなかには、他人に見えないものがありました。もしかすると、私がとても敏感だから意識できたのかもしれません。それはほかでもなく、私の常人社会での現れはあまり目立たないものの、自分が他人より劣っていると思わず、人より抜きんでたいのに、私にはその資質がなかったのです。
1999年、私が『轉法輪』の2ページ目を読んだ時、心に光が差し込みました。これこそ、私が探そうとしていたものでした。大法の修煉を始めた時は一生懸命で、世間のすべてを放下しても修煉したいと思いました。非常に努力して、どんな苦難に遭っても苦しいと言いませんでした。たとえ涙が流れても、少しも動揺せず、口にしませんでした。邪悪な迫害に直面して、傲慢にも卑屈にもならず、邪悪も感心していました。柔のなかに剛がありました。法理上の認識も比較的に冷静で、邪悪の迫害は次々と破たんしました。
私は一部の地方で少し有名になりました。本来負けず嫌いの心を持ち、大法の修煉のなかで積んだ資質があったので、私は他人より強かったのです。その後、修煉に対する要求がますます厳しくなり、これは私が必ず修めなければならないと意識しましたが、すでに非常に頑固なものになっていて、それを取り除くことは容易いことではなくなりました。
私が同修の文章を読んだ時に意識できたのは、私は常人社会で能力もなければ社会的背景もなく、本当に少しの資質もなかった時は正直でした。修煉を始めた当時、私は自分のやるべきことを一生懸命に行い、少し資質があると思い自惚れて有頂天になり、自分がよくできていると思いました。実は一種の名利心であり、抜きん出たいという常人の心で、常人のなかで手に入れることのできないものを修煉のなかで得て、それに満足しました。
私はこのすべてを認識してから、再びこのような問題に遭った時、その人心を比較的容易につかむことができるようになりました。たとえば、同修に技術を教えるとき、心が興奮すると、この人心の根源を思い出して、自分を制御できるようになりました。
師父に感謝し、同修に感謝します。法に基づいていないところについては、同修に法をもって師とするようお願いします。