観念が変われば、全てがうまくいく
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文/香子

 【明慧日本2016年10月27日】私は退職後、師父の各地での説法を一通り勉強しました。師父は『米国西部法会での説法』の中でこのように説かれました。「皆さんが何かをやっている時、それが目的に達していない場合、一途に思い込み、食事も睡眠もろくに取れず、他の人に情緒をコントロールされているかのように、他の人に振り回されて生きているのです。つらく生きていますが目覚めておらず、あなたは他人のために生きています」という段落を見て非常に驚きました。私こそがまさに他人の情緒にコントロールされながら、疲労困憊しているにもかかわらず目を覚まそうとしなかったのです。

 なぜこうなったのでしょうか。私は修煉者なのに、常人に振りまわされていいでしょうか。なぜ今まで法に基づいて悟らなかったのでしょうか。一体どういう心理に操られていたのでしょうか。よくみれば、なんとそれは自らの強い常人の観念と競争心、自我が、まるで透明な山のように目の前に立ち塞がっていたのです。これらの執着心が主に夫とのトラブルに現れ、精進する意志を阻み、修煉の道を歩んでいる私の足を止めていたのです。修煉してすでに19年目になりますが、いまだ内に向けて自らの不足を探そうとせず、相手の欠点ばかり着目していました。これらの汚い心理は自分自身の空間場を妨害しているだけでなく、夫の空間場にも入り込んで、時間が経つにつれてそれが山積みになり、どんどん悪化していったのです。

 毎朝起きる度に夫は私に不満を言い始めます。「よその主婦は1日2回部屋を掃除するのに、お前は1回もやらない」など、思いつくことを片っ端から私にぶつけては大声で喚きます。朝、煉功を終えて7時20分まで法を勉強してから昼食を作り始めますが、夫の声が聞こえてくるたびに心は動揺してしまいます。「130平米もある家を1回掃除するだけでも2時間以上かかってしまう。そんなことをしてたら今日1日何もできない。修煉なんてできない! 私は修煉するために来たのに、夫と言い争ってはいけない。我慢しなければ」と自分に言い聞かせていました。

 夫は毎朝早く起きてお湯を沸かして飲む習慣があります。私たち家族3人のコップは一緒に置いてあるのに、彼は二つのコップにしかお湯を入れず、私のコップにはいつもお湯を注ぎません。初めは気づいていませんでしたが、毎日がこれではいやでも気づきます。しかし、これも修煉だと思い、特に気にしていませんでした。ある日、子供が朝の6時半に出発しなければならないので、朝食や支度のついでにお湯を沸かして三つのコップに注いでテーブルに置きました。夫が起きてこれを見て「入れてくれたんだ」と小声でぶつぶつ言っているのが聞こえてきたので、次からは私のコップにも入れてくれるだろうと思いました。

 しかし、翌日、私のコップは相変わらず空でした。このことだけでなく、普段から些細なこともあるため、すぐに夫の行動の意味を理解しました。夫は私を侮辱しているのです。しかし、口には出さずに「私は修煉者だから、我慢しなければならない」と自分に言い聞かせました。子供ももうすぐ結婚するし、これしきの事で毎日喧嘩しては近所迷惑になると思い、毎回必死に我慢していました。どうしても我慢できない時は、師父の説法を暗唱して心を抑えていました。「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[1]。私は涙が渇くまで暗唱し続ければ、気持ちも自然に落ち着きました。法理は理解できても、内に向けて自分自身を探そうとせず、それどころか、羅漢の次元に達したら、毎日ニコニコしていられるなんてなんと気持ちがいいでしょうとさえ思っていたのです。

 普段生活の中でも、些細なことで何回もしつこく文句を言われると、つい我慢できずに口喧嘩になったことが何度もありました。夫は繰り返し私の心を刺激してくるので、時には、「気づかれないようにこっそりと背後から思い切って殴ってやろう」とさえ考えたことがあります。もちろん、痛みを感じさせる程度で、彼が痛がるところをついて苛立っている心をすっきりさせたいだけでした。けれども、自分は修煉者なので、このようなことをしてはいけません。それでも、即座にこの悪い念を消さなかったので、邪悪に隙を突かれ、発正念もせずにそのまま忘れてしまいました。

 また、ある日、夫はソファーで寛ぎながら文句を言い始めました。私はちょうどその後ろに立っていたので、また悪い考えを起こしました。「力いっぱい頭をたたいてやろう」と思いましたが、夫をたたきたいのは自分ではなく、邪悪に唆された怨念の仕業であることに気づくことができたので、直ちに心の中で「滅、滅、滅」と唱えました。このことに気づいて自分の事を恥ずかしく思いました。日が経つにつれて、夫は口を開く度に首の血管をいっぱいに張り詰めて真っ赤な顔をしながら怒鳴りつけてくるので、夫の声が耳に入ってくるだけで胃がひっくり返るような気がして、腸まで痛み出しました。しかし、すべては師父がすぐに私を呼び覚ましてくださったおかげで手遅れにならずに済んだのです。

 中国で法会が開かれると聞いて、自らの経験や考えをすべて書き出して同修にチェックしてもらいました。文章を見た同修は、夫に対する心理や執着心などをさらに掘り下げた方が良いと善意を持って教えてくれました。今までそれほど深く掘り下げていなかったので、私もちょうどそうしようと思っていたところでした。夫が気に入らなかったり、品位がないと見下したり、夫の気持ちを考えていなかったり、優しく接してあげられなかったり、その他にも、闘争心や怨恨心、恐怖心、憎悪感、嫉妬心、疑心暗鬼など、たくさんの人心が見つかりました。ここまで内に向けて自分自身を探したので、心の中で随分と穏やかになり、恨みも減りましたが、やはり何かが山のように目の前に立ち塞がっている感じがしました。師父は同修の口を借りて教えてくださったので、真剣に考えなければなりません。

 師父のこの段落の説法を繰り返し何度も勉強しました。「特に、人々は生存のため、自己保護のため、自分の利益をより多く得るため、放棄できないものは私がそれを皆、執着と呼んでいます。これらの執着はあたかも大きな鍵のようにあなたを閉じ込めています。あなたは前進の道のりにおいて、全ての鍵を開けなければならず、開けなければ、それはあなたを閉じ込め、迷わせ、それであなたは真相を見ることができません。しかも、返本帰真に向かう道のりに、これらの鍵を開けないと、あなたは行き詰まってしまいます。これはすなわち関なのです。執着している全ては即ちあなたの障碍であり、修煉の時に遭った全ての関は実はあなた自身の難でもあります。私が難を利用した目的はあなたの執着している鍵を開け、真相を見させ、あなたの思想が昇華できるようにするというところにあります」[2]。自分自身の執着心と照らし合わせながら、「執着」 「関」 「鍵」 「自身の難」 「昇華できる」についてじっくり考えていき、ゆっくりと悟っていく中で、少しずつ、少しずつその根源に触れたような気がしてきたので、心の底深くにある「山」が揺らぎ始めたのが分かりました。

 師父の説法の1文字1文字がハンマーのように心にたたきつけられ、鋭い剣のように執着の源に突き刺さって、思わず、「見つけた! 見つけた!」と叫びました。それは巨大なエゴであり、自己中心的な思想で、強い利己心なのです。今まで長い間、それらは心の中で争い、時間が経つにつれてどんどん激しくなっていきました。すべての執着の根源は自我から、自分中心という考えから生まれたのです。この悪魔に19年間苦しめられてきました。このようなものはいりません。

 19年間、師父は私にこれらの執着心を無くさせようと何度も夫に演じさせて、見せてくださったのに、私は少しも悟らずに常人の観念にとらわれていました。けれど、今ようやく悟ったのです。普段生活における些細なことのなかで修煉し、常に自分自身を修煉者として律しなければなりません。まさに「身を労するを苦と算せず、心を修するは最も過ぎ難し、関という関は全て闖えるべし、いたる処全て是れ魔、百の苦一斉に降る、其の如何に活くかを看る、世上の苦に堪え得れば、世を出ずれば是れ佛陀」[3]なのです。

 この愚かな弟子を見捨てずにいてくださった師父に感謝いたします。人心は日常生活の中で、家庭の中で、少しずつ取り除いていくものであるとは知らなかったし、悟ろうともしませんでした。はじめて『轉法輪』を読んだとき、師父は私に人心を取り除くことを教えてくださったのに、私は多すぎた執着心に隔てられて、悟性があまりにも悪すぎました。しかしながら、今やっと理解しました。自らの心性を高め、修煉するために師父は夫に今迄の事を演じさせておられたのです。夫は私の鏡であり、様々な悪い心理を映し出しては私にそれらすべてを取り除かせようとしておられたということが分かりました。

 執着心を見つけだし、根源から取り除いたので、山のように積み重なっていたよくないものは、あっという間に消え去り、今までにないほど気持が楽になり、愉快な気持ちになりました。一刻も早く注意してくれた同修にこのことを伝えたいと思いましたが、時計を見ると、あと20分で深夜の発正念の時間になるので、やめました。

 それからしばらく経ったある日、夫から、今度来る時(当時、私は市外に、夫は市内に住んでいた)、家でご飯を食べていくかと電話が来ました。夫の口調が今迄にないくらい柔らかくて優しかったので、自分自身の執着心がなくなり、よくないものも消えたので、善のパワーが出てきたということが分かりました。大法の威力は本当に素晴らしいです!

 はじめて愉快な気持ちで夫の所に向かい、そして、家に入ると、夫はあいさつをしてくれました。夫がキッチンで餃子を作っているのを見て申し訳なく思いました。野菜などの材料を買うのも、ご飯の支度をするのも、家事もすべてて退職した私がしなければならないのに、夫が替わりにやっているのです。それから、来る途中に買ったお肉を冷蔵庫に入れようと扉を開けると、たくさんの野菜が目に飛び込んできました。

 もうすぐ昼時なので、慌ててキッチンに入ると、棚に10個以上の茄子が並べられているのを見て、思わず小さく笑って「この人はきっと茄子星から来た茄子星人だわ」と思いました。まだ執着心を見つけていない以前の自分ならきっとこれらの茄子を見た途端に怒りが爆発していたでしょう。「毎日、茄子、茄子なんて」と心の中で文句を並べていたに違いありません。元々、食べ物に関して好き嫌いはなく、子供も何も言わずに与えられたものを食べており、ただ食べる量の多さが異なるだけです。けれども、夫が材料を買いに行くとき、いつも同じ野菜しか買わない上に、量も多く、そして、必ず茄子が入っています。一度に買った茄子の量は3、4回分もあり、料理する時は油が少なく、ただ水で茄子を煮ただけのようなものです。一度、二度ならまだしも、何度も同じ料理を出されると茄子を見ただけで吐き気がしてきました。しかし、今回茄子を見て、気持ち悪さも吐き気もしませんでした。茄子は相変わらず茄子で、今迄は執着心が作用していたので、その心理さえなくなれば、誰を見ても、何を見ても無頓着でいられるのです。

 ご飯の支度をしている間、空いている時間を利用してトイレやキッチンの下、シンクなどを掃除しました。清掃用具が足りないので、ピカピカにはできませんでしたが、交流文章を整理している同修の手伝いを終えた後、大掃除を行う予定です。夫も夫なりに大変です。家事と仕事に加え、兄弟たちの事まで面倒を見なければならず、結構苦労しています。確かに夫は勤勉な人ですが、ただ少々短気で物事もズバズバ言う性格な上、人間関係においても不器用なだけなのです。

 結婚してもうじき30年目を迎えますが、修煉する前は彼を咎め、修煉してからは心の中で夫を恨んでいました。修煉したからこそこれらは修めなければならない心であると知り、そして、この修煉体験文章を書く中で、師父のご加護の下、ようやく怨恨心を根本から取り除くことができ、完全に解体することができたのです。心の中だけでなく、面と向かって夫に何度もお礼を言いました。夫がいなければここまで修煉の心を固めることはできなかったし、心性を高める機会もこれほど多くはありませんでした。長い間、この役を演じ、私に心性を高める環境を提供し続けて、修煉の手助けをしてくれた夫に感謝しています。また、夫の大法に対する態度が変わり、大法に同化し、私の修煉を応援してくれることを心から期待しています。

 執着心が見つかり、視点と観念を変えて考えれば、師父が説かれた「本当に向上できることの原因は人の心に変化が生じ、心が基準に達し、思想境地が基準に達してからはじめて修煉によって向上したと言えます」[2]という法理が分かりました。

 朝煉功する時、座禅で足が痛み出しますが、それは何かが詰まっているようなキリキリとした痛みではなく、スーッとした気持ちのいい痛みに変わりました。この二つの痛みに大きな違いがあり、一つは楽な痛みで、もう一つは心まで苛立つような鋭い痛みなのです。

 また、『轉法輪』を読んだり、暗記したりする時も前とは心境が異なり、読んだ量を追求するだけではありません。師父が常に本を通して法理を教えてくださっているので、その収獲や喜びが法に溶け込んでいるのです。

 仕事で出かけている途中、500メートルもない道のりで4人に真相を伝えて「三退」させ、また、江沢民を告発するための署名もしてもらいました。汚れたものを捨てて思想が清らかになったからこそ、すべてが順調に、うまくいくようになったのです。

 今まで師父のご加護に感謝いたします!

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『精進要旨』「忍とは何か」
 [2]李洪志師父の著作:『スイス法会での説法』
 [3]李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/10/14/336242.html )
 
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