落後した同修をどのように助けるか
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文/慧福

 【明慧日本2016年10月15日】師父が法を正し、大法弟子が師の法を正すことを手助けする過程はすでに終盤になりました。しかし、多くの衆生がまだ救われておらず、多くの大法弟子が追いついてきていません。師父はずっと時間を伸ばされています。しかし、時間には限りがあります。私は間違った路を歩んだことがあり、同修が私のところを訪れた時、私が見たことについて、私の理解を述べます。

 修煉の道で落後した同修を呼び戻すには、必ずしっかり行い、成功するまで諦めない決意が必要です。これは非常に重要です。師父は「全力を挙げて行ない、行なった以上、しっかり行なってください。でなければ行なわないでください」[1] 「大法弟子が行なっていることなので気をつけるべきです。行なうなら、しっかり行なうべきです」[2]と言われました。一旦挫折するとやめてしまい、落胆し、一部の同修は帰宅して、内に向けて探します。自分が心を放下すれば、同修の状況もよくなるなどと言っています。一部の人は自信をなくし、実際は問題から逃げてしまいます。

 同修を呼び戻すことは容易なことではありません。呼び戻したければ、呼び戻せるということではなく、それは大きな過程です。私の理解によると、そのなかには師父の計り知れない心血が含まれています。たとえば、あなたがこのことを行おうとする時、師父はこのことを如何に行うか、あなたがその過程でいかに向上するか、また落後した同修をいかに戻らせるか、また彼の業を滅してあげるなどなどを按排しなければなりません。

 また、私達に見えない按排が天上、地上にたくさんあります。それがなければ、だれも彼を救うことはできません。もし、途中でやめたら、師父が按排されたすべては無駄になってしまい、このことを行っている人の向上にとっても不利になります。しかも、この機会を失ったら、次回、また彼を助けようとしてもそれは更に難しくなり、その次になると、更に更に難しくなります。法輪功真相を伝えることも同様ではないでしょうか。もしかして、チャンスは一回しかないのかもしれません。

 もう一つは落後した同修の対応に、戸惑わないでください。彼はあなたの話を聞かないかもしれず、一部は道理を語るかもしれません。あなたは理に適っていると思い、彼がよく修めていると思うかもしれません。しっかり修めているかどうかは、彼の心性と彼が三つのことをやっているかどうかです。人によっては、一つもやってない場合、どうしてよく修めているといえるでしょうか。

 同修の執着に執着しないでください。一部の同修は口を開くと、すぐ正しくない、法に適っていないことを喋ります。指摘すると、彼はあなたの指摘を認めず、自分の考えを堅持します。一部の同修は執着するあまり、このことについて話すと、その同修は彼のここがだめ、あそこがだめ、ひいてはいかにおかしいか、いか彼に伝えても聞かないなどなど語ります。一部の同修はその同修がいかに正しくないかわかったといい、語ることも理にかなっていますが、それはやはり自分に執着しているのです。

 同修はほかでもなく、それらの執着を持っているからこそ、助けが必要なのです。その執着自体も本当の彼ではなく、それはただ彼が取り除くべきよくないものに過ぎません。もちろん、同修の間で彼のことを話し合い、それが主に彼を助けるためなら、それは問題ありません。しかし、他人を指摘することに執着しないよう気をつけてください。

 もう一つはトラブルに遭遇したら、自分に向けて探すことです。このことは誰でも知っています。トラブルに遭うと自分に向けて探さなければ、このトラブルは解決されず、ずっと残ってしまいます。自分に向けて探す場合、極端に走ってはいけません。あなたは出社したら、トラブルに遭います。帰宅して、内に向けて探せば、それも正しいでしょうか。やるべきことはやはり行うべきです。

 ここまでにしましょう。これはただ私の僅かな考えにすぎず、非常に未熟です。

 正しくないところについては、同修のみなさまからのご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「二〇一〇年ニューヨーク法会での説法」
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/9/16/335079.html )
 
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