観念を変え 慈悲をもって同修に接する
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 【明慧日本2016年9月5日】以前、周囲にいる態度が悪い同修や強気な同修、あるいはさまざまな名利情に強く執着している同修、特に自分をよく「傷つける」同修を見ると、どうしても遠ざかりたくなり、彼らを怨んだり、または見下したりしていました。その後、トラブルの中、または自分が「傷つけられた」とき、まさに内に向けて探し、自分を修めるべきときだと徐々に分かりました。怨む心は消えつつありますが、他人を見下す心が依然として根強く残っています。

 上記のような同修たちとの間で、私はいつも心の距離を置き、真に慈悲を持って接することができず、気が合う同修達と区別していました。彼らとトラブルになったとき、私はたとえ内に向けて探しても、彼らを「利用して」自分の向上を図る感じで、心の中でやはり彼らを見下していました。

 私は修煉状態が悪く、何かを指摘されればすぐに怒り出す同修を知っています。彼は誰もを軽蔑し、「内に向けて探す」を口癖のように言っています。しかし、私は彼が内に向けて探したのを見たことがありませんでした。機会あるたびに、私は彼が改善できるよう交流を試みましたが、一向に変化が見られないため、彼から遠く離れようと考えました。

 その後、ある夢を見ました。夢の中で、その同修が訪ねてきたとき、私は現実と同じように遠くへ走って行きました。振り向くと、同修は現実社会の傲慢な彼と真反対な表情で、悲しそうにその場に立ち竦んでいました。夢の中で同修は何も言わなかったのですが、その悲しく、失望した表情がいかにも「なぜ私を助けてくれないのですか?」と言っているようでした。

 夢から目が覚めて、その場面があまりにもはっきりとしていたため、私は震撼しました。

 多くの魔難を乗り越えた後、私は魔難の中で盛んに働く人心に動かされて振る舞ったのは真の自分ではないことに気づきました。なぜなら、自分の主意識が強く、はっきりとしている時はそんな事をしない、あるいはしたくないはずだからです。

 それからもう一つの道理が分かりました。私は同修に反感を抱き、同修を排斥しようとしたとき、まさに同修の人間の一面に気を取られて、そのよくない彼、強気な彼を真の同修だと思ってしまったのです。同修の真我の一面は絶対にそうではないと思います。

 皆さんも分かっていると思いますが、大法弟子の肉体において旧勢力は多くの要素に絡む非常に複雑な按排をしました。同修の主意識が十分に大法に同化できておらず(学法の量が足りないのではなく、真に心を静めて学法できていない)、主意識が弱ければ、多くの他の生命や要素は隙を狙ってその肉体を操るようになります。結果として、同修は長い間各種の執着に悩んで突破できず、まさに魔難のなかにいるのではありませんか。もっとも厳しい正法修煉の中で、同修は本当に苦しみ、前へ進もうとしても難しく、まさに私たちの助けを必要としています! それなのに、私は同修を怨み、見下し、旧勢力に加担して同修を叱責してきたのではありませんか?! 

 さまざまな縁で出会えた同修、知り合った同修との間で、もしかして正法修煉の中でお互いを加持し、お互いを助け合う責任と使命、あるいは約束があったかも知れません。今までの修煉過程を思い出して見ると、私は同修に反感を覚え、同修を排斥、見下した後に、往々にして大きな魔難に遭遇しました。それはもしかして、旧勢力が迫害を加える一つの口実になったのかも知れません。

 同修のよくない修煉状態を見聞きしたとき、同修が各種の関を乗り越えることができないと知ったとき、または「私」を「傷つけた」とき、私たちは内に向けて探すと同時に、今までの観念を改め、こう思いましょう。「今、同修は魔難のなかにいる。旧勢力と邪悪は彼(彼女)を迫害している。同修が必要としているのは、私が黙々と彼(彼女)の不足を補い、迫害を加えている邪悪を排除し、彼(彼女)が師父の按排された道を正しく歩めるように彼(彼女)の正念を強めることだ」と。

 その後、私は真心を持って上記の考えを実際の行動に移したとき、同修に対する恨みや軽蔑の念がまったく生じなくなりました。また、よくない生命や要素に操られて現われた同修の良くない状態に惑わされず、私は同修のために発正念を行う際、私たちの真の生命が一緒にいて、皆が法に同化した神聖かつ純潔な生命であり、お互いを尊重し、大切に思ってしていることを感じました。

 私がそのように実行するたびに、真の善の力が師父と大法によって加持され、その真心から出た慈悲がすべての邪悪を一掃する強大なエネルギーを発し、同修間の一切の隔たりや邪悪による妨害、迫害を無くすことができることに気づきました。

 その後体得したのですが、大法の修煉によって得たこの寛容と慈悲こそが、私が幾たびも乗り越えることができないと思った関の数々を乗り越えることができた鍵でした。そして、正法修煉の中で一つの理を悟りました。他の生命への寛容は、最後になってみればそれは自分への寛容だったのでした。真心を持って他人を助けた行為は、最後になってみると、それが自分を助けることでした。慈悲をもって他の生命に接することができる人は必ず大法の慈悲なる待遇を受けるのです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/28/333630.html)
 
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