修煉の中に現れる「小さい事」
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文/海外の大法弟子 熔石

 【明慧日本2016年6月23日】近頃、身近な何人かの同修が病による難関を乗り越えていますが、ずっとその次元にいてなかなか乗り越えられない同修もいます。この同修たちは皆「三つの事」をしっかりこなしており、真相伝えも真剣に取り組んでいますが、難関を乗り越えられない原因は未だ見つかっていません。ここ何年間のうち、相次いで何人かの同修がすでに亡くなっており、その本当の原因については周りの同修も詳しくは分かっていないようです。

 師父は『二〇一五年米国西部法会での説法』の中でこのように説かれました。「一部の学習者は病業の関を乗り越えられません。重大な過ちばかり考えないでください。大きな過ちがなく、法に対して確固たる信念を持っているとあなたは思っています。しかし、あなたはそれらの小さいことを軽視しないでください。邪悪は隙に乗じてくるのです。多くの学習者は小さい過ちのせいで命まで失いました。本当に非常に小さいことが原因だったのです。修煉は厳粛であり、漏れがあってはならないからです。あなたはそれらのことを長い間修めていません。小さいことですが、あなたは長い間重視していません。これで大ごとになりました。多くの人がこれで命を失いました。」

 この段落の説法を下に、私は自らの修煉の中で起きた「小さい事」について話したいと思います。それらは主に人の観念に現れ、その多くはすでに習慣や当たり前の事のように現れたために、気づかれにくくなっています。その上、その結果がすぐには現れないので、例え気づいたとしても、大したことではないと思ってしまいます。

 例えば、寒い時、常人は服を多めに着て暖かくしますが、修煉者も服を増やします。表面上当たり前のように思えますが、常人の場合、暖かくしていなければ風邪をひくし、病気になると考えます。しかし、修煉者も同じようなことを考えればそれは問題になるでしょう。法を勉強していれば、人が病気になるかどうかということは業力によるものと分かり、薄手になって後から風邪をひいたという現象はあくまでもこの空間での現れでしかなく、根本的な原因ではありません。大法の修煉者として無理に苦を嘗めるようなことはしませんが、大事なのは、修煉者が何を考えているのか、なぜそうしたのかということなのです。我々は常人と同じことをして、表ではさほどの違いがないように見えますが、実際の目的はかけ離れているのです。

 その他にも、喉が渇いたとき常人は飲み物を欲しがり、そこは修煉者も同じです。しかし、常人は水を多く飲む方が健康的であると考えながら水をたくさん飲みます。果たしてそれは水の量によって決定されるものでしょうか。いつでも水を常備し、集団で法を勉強するときもよく水を飲む同修を見かけます。集団で学法する時、真剣に法を学んでいれば、おのずと喉がうるおい、乾いたとは感じないと、ほとんどの同修がこのようなことを体験していると思います。しかし、水を常備している同修には感じにくいでしょう。なぜそう感じないのでしょうか。自分自身に原因があるのではないでしょうか。ここでは修煉者が水を飲んではいけないということを話しているのではなく、水を飲む時に考えている常人の観念を取り除くべきであると私は思っています。

 また、風に吹かれると頭が痛くなったり、扇風機の風も当たってはいけないということを話している同修を見かけたこともあります。風はあくまでも誘因にすぎず、頭痛になるのは業力を消している時に現れる反応でしかありません。修煉者が風邪を恐れるなどよく考えてみれば問題ではないでしょうか。同じようなことが何度も起きれば人は学習し、そして観念が形成されます。習慣になれば直すのは容易なことではありません。何よりもこれらの観念はすべて取り除かなければならず、中でも時間がかかったり、何度も繰り返して出てくる観念も存在します。そして、この過程で我々が法に対して固い信念を持っているかどうかが試されます。

 よく探していけば、このような「小さい事」はまだたくさんあります。普段、同修たちが、常人の観念が強い事や習慣が天性のようになってしまうというような、常人の話をしているところを目にします。執着心は人に業力を作らせてしまうので、執着心を取り除くときは当然苦を嘗めなければなりません。上記に書いた「小さい事」は、はっきり言えば、我々が自分自身を修煉者として見なしていないから起きる問題ばかりです。人にはたくさんの観念が存在し、中でも他人ですら見つけられないものもあります。もし他人が簡単に見つけ出すことができるなら、その観念は極めて強いということになります。

 これらの事は同修が先に亡くなった本当の原因ではないかもしれませんが、修煉者がこれらの観念を持っていれば、いつかきっと自分にトラブルや問題をもたらすでしょう。先に意識してこそ取り除くことができるのであり、意識すらできなければ、非常に難しいことになります。肝心なのは我々が悟りたいかどうか、そして内に向けて自分を探るかどうかなのです。ですから、自分自身の言動一つ一つに注意し、それらが法理に合っているかどうかを常に気を付けなければなりません。

 新しい学習者にとって上記の事は大したことではないのかもしれません。これから修煉していき、時間をかけて取り除けばいいと思われるかもしれませんが、10年以上修煉してきた古い同修たちにとっては、もう「小さい事」ではありません。つまりこれらは具体定な仕事の中で自分を修煉者として見なしているかどうかの問題であり、法を信じているかどうかの問題なのです。十何年も経てここまで歩んで来られたのは容易なことではありません。いくつかの「小さい事」のために最後までたどり着くことができなければ、それはまことに残念なことで、後悔してもしきれないでしょう。

 
(中国語: http://www.minghui.org/mh/articles/2016/4/29/327283.html )
 
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