厭世から根本的な執着を見つけた
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年6月11日】私は一時、一種のマイナスの考えに苦しんでいました。ひどい時は厭世的になってしまい、時には何かに圧迫されているような息苦しさでした。この状態から脱出しようと思って、法を暗記し、正念を発しましたが、一時的によくなったものの、しばらくすると再びその状態に戻っていました。どう頑張っても、そのものを取り除けない気がしました。苦しみの背後に何かの執着が潜んでいると感じました。

 師父が数回告げて下さって、大法に照らして内に向けて探し、一連の執着を見つけました。それを取り除いてから、ようやく背後にあった根源的な原因を見つけました。

 私は厭世の気持ちを辿っていって、消極的な情緒と恨む心を見つけました。私が接触している同修のほとんどは精進していませんでした。しかも、彼らが精進していないせいで、法を正す進展まで遅れてしまいました。彼らを救うため、師父が再三の機会を与えてくださっているにもかかわらず、彼らは相変わらず精進しようとしませんでした。彼らにとって三つの事より、個人の名・利・情のほうがもっと大事でした。自分の修煉と衆生を救い済度することは、自分の人生がまずうまく行ってからの話でした。名・利・情を追求しながら、また「常人の状態に符合し、極端に走らない」を口実にして、自らが抱えている人心と向き合おうとしませんでした。彼らに対して、何もできない私は、彼らを恨むようになりました。彼らのせいで法を正すことがいつ終わるかも見えなくなって絶望しました。そしてさらに消極的になって、最後に厭世にまで至りました。旧勢力はこの隙に乗じて、私の苦しみを拡大し、精進する意志を動揺させてしまいました。

 消極的な情緒と恨む心を見つけた後、さらにそれらを辿って探しました。私は常人のことに、ほとんど興味がありませんでした。その代わりに修煉して円満成就するのが人生の唯一の追求する目標となりました。しかし、唯一の追求している目標まで絶望的になりかけていると、生きていく気力もなくなりました。これも精進しない同修たちを恨んだ理由の一つです。すなわち私は時間と円満成就に執着していました。

 しかし、精進しない同修たちのせいで、法を正す進展を延長してしまったという認識を分析すると、さらに執着を見つけました。一つは「時間を延長したのは私ではなく、同修だ」と、つまり「時間を延長した人の中に、自分は含まれていない」と認識していました。しかし、この認識は本当のことを言えばうぬぼれでした。厳しく言うと、心から魔を生じていました。とても危険でした。もう一つはこれらの同修より自分はたくさん努力していると思っていました。特に同年代の若い大法弟子と比較すると、彼らの多くは常人に戻っていました。修煉し続けている人でも、あるいは再び修煉に戻ってきた人でも、人心が多く、高い学歴と能力を持っているにも関わらず、それらを名・利・情を求めるために使って、法を実証しようとしませんでした。時間の大切さを知っている人でも、やはりまず自分の名・利・情を満足させてから、次元を落とさないように法を実証していました。彼らに対して、何もない私はひたすら努力しているのに、また余分に彼らのために努力しなければならないのは、不平等だと思っていました。

 しかし、自分はなぜ他人より多く努力したくないのでしょうか? 不公平な心を辿って探していくと、損をしたくない心や張り合う心、嫉妬心、同修を寛容しない心、絶対的な平等主義の党文化を見つけました。さらに肝心なのは、自分がこの世に来た目的を忘れてしまって、師父が与えてくださった、天上の神々も羨ましがっている機会を、常人の努力だと見なしてしまっていました。 

 さらに自分でも信じがたいのは、衆生のため、全体のためという口実の背後に、求める心が潜んでいました。自分の要求が満たされてから、ようやく修煉し衆生を救い済度しようとしていました。でなければ心のバランスを失って、消極的になって、恨んでしまい、甚だしく厭世的になっていました。つまり自分の修煉と衆生を救うことに条件を設けていました。

 他人が精進すれば、自分も精進し、他人が精進しなければ自分も緩んでしまい、まったく他人の精進が自分の動力のようでした。今まで私は大法を基準に修めていたのではなく、他人を見て修煉していました。また同修たちがみんな精進すれば、人を救う力も強くなりましたので、全体の修煉時間と人を救う時間も短くなりました。それでようやく情熱が出てきていました。希望が見えてから頑張ろうとするのは、大法からメリットを得ながら、名・利・情を求める同修と、何の違いもありませんでした。ただ同修が求めていたのは常人のものでしたが、私が求めていたのは修煉の果報でした。どちらも基点が不純でした。

 自分の修煉を振り替えてみると、円満成就することを精進する動力にするべきではありませんでした。また希望が見えないから精進しなくなるのもいけませんでした。もし何も求めなければ、他人が精進するか否かも、私に影響がないはずでした。時間が長くなることも、悲しくなることもありませんでした。求めなければ、努力するという概念もなくなるので、いかなる事もいかなる人も、自分の精進する意志を動じさせることはありませんでした。それに、着実に修煉している人なら、師父が法を正すのを手伝うことができれば、世間にいても天上にいても変わりがありませんでした。

 私は小さい頃から修煉を始めたので、年配の同修や大人の同修のような根本的な執着がないと思っていました。しかし、それがただ深く隠れていただけで、しかも「全体と衆生を思う」という華麗な衣に包まれていたのでした。

 これらの執着の基点はすべて自我のためでした。厭世の苦痛から脱出したいため精進していたのも、求める心でした。だから一時に効果が出ましたが、根本から解決することができませんでした。

終わりの言葉

 以前見た夢の中で、黄金色の袈裟を召された師父は、授業をなさる前に、私を呼んで「1カットのケーキを、全クラスの同修に分けてほしい」と渡してくださいました。しかも「ケーキの一部が腐っているので、さきに腐った部分を取り除かなければならない」とおっしゃいました。しかし、どこが腐っていたのかは、私から見ると全然わかりませんでした。そして、師父がその腐った部分を切り取って、残った半分を渡してくださいました。しかし、元々1人分しかなかったので、さらに半分を捨てると、残り半分はどのように10数人か20数人の同修に分けるのかと疑問に思いました。

 そして夢のことを同修の母に話すと、母はミラレパのことを例にして悟らせてくれました。ミラレパは円満成就された後、弟子たちに少しの布と少しの飴を残されました。弟子たちがミラレパのおっしゃる通りに切り分けると、何回切り分けても減ることがありませんでした。それで、その夢は、私に大法から得た良いところを持って、同修たちを助けなければいけないと悟りました。力が足りないと思っても、疑わずに師父のおっしゃる通りにやれば、ミラレパが弟子たちに残した布と飴のように、知恵と力も使い切れないでしょう。

 そして、私は同修を理解し、包容し、心から同修を助けるべきだと悟りました。ただし、助けることは自慢するのでもなく、相手を咎めるのでもなく、裏表のあるおざなりでもなく、自分の認識を押し付けることでもありません。ひたすら大法に同化し、他人のためになるべきです。

 厭世と、消極的な情緒と恨む苦痛がなくなってから、ようやく師父と同修たちが、私の向上を待っていてくださったと分かりました!

 師父に感謝いたします! 同修の皆さんに感謝します!

 次元に限りがありますので、不適切なところを指摘お願いします。

 合掌!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/5/30/329330.html)
 
関連文章