文/海外の大法弟子
【明慧日本2015年6月12日】ニューヨーク法会は終了しましたが、同修が発表した「いかに実修するかに目覚める」の交流文章の中の一節が、自分自身に注意を喚起しました。そこには次のように述べられています。「自分は大法を利用しており、はっきり言えば、大法を自分の病気治療の薬としました。なぜなら、法を学ぶ時、私が求めていたのは、法を学んだ後の頭の明晰さと心の落ち着きでした」
最近、私はずっと内に向けて探し、修煉の根本的な目的はなんだろうと考えていました。私には、同修と同じように、大法を利用して、心の落ち着きを求めるところがあるのではないか、自分はなぜ修煉をし、なぜ最初と同じように修煉ができないのかと反省しました。私は、無意識に同修が作曲した歌の中に「功利は永遠にあらず」との歌詞を見た時、自分の根本的な執着をついに発見しました。この執着は今までの私から見れば、何の不都合もなく当然なもので、とても深く隠れていました。
当初、修煉を始めた時は、常人の物が無常であり、どれも長続きしないように感じ、自分は人の世の常である情と煩悩に陥りたくなく、それらに苦しめられたくないためでした。また私は名利、情、多くの執着心を取り除き、それによって平静で、自在(束縛や支障がなく思いのままである)で、洒脱(俗気がなくさっぱりしている)な境地に達したいという願望を持っていました。長い間、私の修煉、私の執着心を取り除く原点は、「常人の物は持って行くことができない、だから放下しなければならない」という考えに基づいていました。
もし、この理論に従い、逆に考えれば、私はずっと平静、自在、永劫不変を求め、それに執着しているのではないでしょうか。私はもっと高い基点に立ち衆生を済度するのではなく、無私無我の基点に立ち自分を修め、執着心を取り除くのではなく、ただ常人の名利情の苦しみから逃れるために自分を修めているのではないでしょうか。それは旧宇宙の私の現れで、自分の解脱を求め、大法を利用して私のために達成しようとしているのではないでしょうか。
当初、私が修煉する目的は純粋ではありませんでした。それによって、この数年間の修煉の中で、私はとても消極的で、受動的でした。時間が経つと、自分の修煉の意志が蝕(むしば)まれ、修煉当初の熱意がなくなり、三つのことも形式的に行うようになり、大法の奥深い内包が見えず、ただ感性で法を理解して、理性的な昇華はなく、修煉に対する理解もずっと浅い所に留まり、執着心が取り除かれた後の平静で自在な境地に執着していました。
修煉後、道徳の向上によって、常人はいつも私を良い人だと褒めてくれるようになり、また、プロジェクトの中で同修達に認められることによって、私は無意識のうちに歓喜心、虚栄心、顕示心が芽生え、さらに名に執着するようになりました。根本的な執着心を取り除かなければ、他の新しい執着心が絶え間なく生まれ、それらはすべて修煉の道で私の前進を妨げる物質となりました。
私は今のこの次元で、自分の修煉の原点が純粋ではないことに気づいた時、心の中で、自分の使命をもっと明確に認識するようになりました。すると、自分の神の一面がより強く大きくなったと感じ、正念を発する時のエネルギーも非常に純粋になりました。私個人の理解では、もし、私達の一分一秒の修煉が、執着心を取り除き、衆生を救い済度する無私無我の基点に立ち、大法から何らの報いを求める心が全くなければ、私達がしているこのことは初めて意味を持つようになり、力強くなり、私達は初めて人を救い済度することができ、そして、初めて大法弟子と呼ばれるに相応しくなるのだと強く思いました。
不適切なところは慈悲なるご指摘をお願いいたします。