文/イギリスの大法弟子
【明慧日本2015年1月3日】私はフルタイムでマスコミの仕事を始めて以来、毎日少なくとも15時間パソコンの前に座っています。しかし、いくら頑張っても党文化は相変わらず重く、いくら頑張ってもマスコミの業績は上がらず、いくら頑張っても神韻は私たちの地域で局面を開くことができず、いくら頑張っても自分の子供も修煉しませんでした。
私たちは修煉を始めて世界一幸せになったと心で分かっていても、悩みを消すことができず、師父の言葉と衆生の期待には応えられないことを常に感じて、私の気持ちはいつも重く、ひどいときは目が痛くて開けられないほどでした。一つの文章を書くにも、途中で十数回止まり、正念を発してやっと完成できるのです。
時間はこの様に過ぎて行き、いつの間にか、もみ上げが白くなり、歯も緩くなり、身体は痛み、自分に何か問題があると気づきました。まわりの同修も皆がオーバーワークで働いており、もくもくと貢献し、多くの人が老いてきました。
内に向けて探しても、執着を見つけられませんでした。私は世間のすべてが惜しくなく、ただ合格した大法弟子になりたい、師父の要求に達したいだけなのです。
問題が見つからないのは、旧勢力の妨害に違いないと思いました。それならば否定して、認めてはいけないとも思いました。
この間香港に行ったとき、友人に会い、老けた私を見て「心が痛い」と言いました。当時私は気にしませんでした。家に帰っても親戚は65歳に見えると言い、彼らはいつも私に対してネガティブな発言をしましたが、私は相変らず気にしませんでした。
私は今日までずっと街道で煉功して功を広めてきました。静功していた時、同修が小さい声で「たくさんの人が見ているから、表情を少し和やかにしてください」と言いに来ました。寒さで私の顔がこわばっていたようです。その時突然、そうだ! 私は「顔は祥和の意を帯びる」[1]を、長い間忘れていたことをやっと認識できました。私は多くの困難に悩まされて沈んだ顔になっていました。
自分の周りの同修を振り返ってみると、50歳を過ぎた人が、20歳のように若いのです。肝心なのは彼女の心の状態で、電話からも彼女の楽しい笑い声が聞こえます。いつも「ハハ、ハハ」と笑って、まるで純真な少女のようですが、昔の彼女は笑う人ではありませんでした。
私はやっと目が覚めました。私は心が水のように静かな状態からすでに離れてしまい、毎日一生懸命目標を達成しようと求めていました。創作は大法のものを読者に注ぎ込みたいという鮮明な目的を帯びるものになっていました。甚だしい場合、自分の子供に「共産党のようだ」と言われたこともあります。
三退を勧めるときも、焦る気持ちになりがちで、強烈な求める心を抱いていました。もし神通力があれば、相手の心を取り出して綺麗に洗浄したいと思うほどで、非常に強制的で執着していました。
ふと分かったような気がしました。私の修煉の最大の執着はつまり「無理をする」ことと、独りよがりにあります。
無理をする気持ちは私を常に頑張る状態に置き、いつも他人を変えようとし、自分の執着に気付かずに家族を私から離れさせました。
旧勢力とは何でしょうか? つまり次元ごとにいるいわゆる20パーセントのエリートです。彼らは独りよがりで、いつも衆生に何かを按排しようとしており、ただ謙虚に服従し、すべてを善なる形で解いてくださる師尊を待つことをしたくないのです。
初心を忘れずに修煉し勇猛邁進することで、初期のころの穏やかさと喜びを忘れてしまいました。
執着する人心を放下しましょう。自然に任せるのは必ずしも速度を落とすことではなく、仕事の量を減少することもなく、ただ私たちの心は穏やかです。自分がよく行っていないことをもう責めません。大覚者の自在さは、法に飛び込んで無我の楽しさが自然に湧いてくるのです。
私の心配や悩みや苦しさは、深く探ってみれば、やはり大法と自分と同修への自信がないことではありませんか? やはり正念が足りないのではありませんか? 師父は「坦坦蕩蕩として大穹を正す」[2]と説かれました。仕事において工夫するのではなく、心を修めて向上することに力を入れるのです。人間は死ぬ気で働いても神のような行いができるわけはありません。たくさん法を勉強して、私たちに神通力と法力を与えてくださるのは法しかありません。
以前大法の仕事で忙しくて、週末の法を広める時しか五式の煉功を完全にできなかったにもかかわらず「われわれの功は法が人を煉るから、心性が向上すれば、功が自ら伸びるので、肉体の変化は重要ではない」と言い訳をしていました。前回香港に行った時、他の空間の煉功音楽がよく聞こえたので、これは本体の転化を強めるべきだという師父のお告げだと悟りました。実は師父は早期に煉功は圓満成就の補助的な手段だと説かれたのに、私は自分の浅はかな認識で師父の要求を曲解し、怠けた方式をとろうとしました。
修煉者は「静にして思わざれば」[3]の状態に達するべきですが、十数年修煉して、座禅する時も入静できる時間はほんのわずかです。大法のいろんな事が頭にたくさんあって、忙しい中で如何に心を静めるかを努力しませんでした。今私はこれらの考えはすべて私ではなく、後天の観念による幻想で、放棄しなければならないと分かりました。
「妄念を蕩尽すれば 佛を修するは難しからず」[4]。いかに自分を修して正すかが分かりました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『大圓満法』「二、動作図解」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「一念中」
[3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」
[4] 李洪志師父の詩:『洪吟』「無 存」