同修にとって本当に良いこととは何か
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年9月21日】最近わが地区で、同修(以後Aさんと表記)が連行されました。いままで、Aさんは法を正すプロジェクトのなかで重要な役割を果たしていました。消耗材の購入、パソコンのインストールと修理、よそへ法輪功の資料を送ることなど担当し、また仕事をする上で、ずっと信頼され、責任を果たし、その仕事を担当する勇気を持っていました。Aさんの毎月の生活費は2千~3千元ですが、自分では200~300元しか使わず、残りの大部分を大法関連の仕事に使いました。これらのことは彼女が自ら言い出したことではなく、私が気付いて、彼女に確認してやっと分かったのでした。

 このような同修が、法を正すことが終盤に向かう時期に、邪悪が極めて少ない状況の下で、連行されました。

 激しい嫉妬心

 Aさんが連行される前、何回か長い時間交流したことがあります。交流のなかでAさんの問題は大変厳しいと感じ、道からますます遠ざかっている感じがしました。

 私たちがはじめて長く交流したのは5月ごろで、5時間くらいでした。交流の過程で、私はAさんの嫉妬心が、私が認識している程度を遥かに超えていることに気づきました。Aさんは時には、他人の感情を考慮せず、法の基準で同修を量っていました。このようにすることは人に対して包容してないことであり、ひいては苛酷であると認識していませんでした。あれほど頭のよい人がこれほど愚かであることに私は驚きました。私はAさんに「あなた、これは修煉ですか? あなたは自分が修めているのがなにか知っていますか?」と聞きました。その前に、私はずっとAさんにこれは嫉妬心だと気づかせましたが、彼女は心のなかで受け入れませんでした。

 Aさんが連行される1カ月前、Aさんは長い間、技術関連の仕事をしていましたが、簡単なソフトの応用でも、めったに人に教えようとせず、パソコンの基礎がない人にとって、学ぶことは大変難しかったことがわかりました。最近、Aさんは技術を学んでいる人を叱って、相手がどうすればよいかわからなくなることもありました。Aさんはすでに他人に対して薄情でした。私もかつてAさんからパソコン関連の知識を学んで、Aさんの仕事を分担したいと伝えました。なぜなら、Aさんは常に忙しく走り回っていたからです。しかし、Aさんはずっと口実を見つけて拒絶しました。この点について、私ははっきりとわかっていました。ただ当時は、私自身の要素によるものと考え、Aさんの問題であると深く考えていなかっただけです。私がほかの人からパソコンの技術を学ぼうとした時、Aさんはなんと非常に怒り、「あなたはどうしてこれを学ぼうとするのですか?」と私に詰問しました。このような明らかに嫉妬心による発言をしながら、Aさんは堂々としていました。私はやっとAさんの嫉妬心がこれほどまで至り、Aさんの本来の性格を歪ませていると認識しました。Aさんは現地で技術のわかる同修が不足しており、これらの技術を学ぼうとする人たちは何に執着しているか、と考えていました。Aさんのこのような見方には同修に対する悪意の推測があり、同修の好意を勘違いし、無意識のうちに自分を我が地区の一部の管理者と見なしていました。実際、現在に至っても、我が地区でパソコンの技術を習得している同修はまだ足りません。多くの場合、技術による助けが必要な場合、私達は苦労して彼らを探し、非常に小さな問題でも、彼らが時間があるときに解決してくれるのを待たなければなりませんでした。

 常人の嫉妬は、人が自分より良くなることを許さず、成功者を嫉妬し、失敗者を嘲笑することでしょう。しかし、私が修煉のなかで体験した嫉妬心はこれより多いのです。たとえば、人のために不平をこぼすときには嫉妬があり、表面的には正義があるように見えても、実際は悪で悪を制しているのです。そのなかに悪のものがあり、嫉妬心があります。師父は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」[1]と説かれました。私個人の理解では、何による悪であれ、その最終的な根源は嫉妬心です。

 長時間の交流後、私はAさんと一緒に発正念をしました。私は二つのシーンを見ました。一つは、非常に大きなワニが水から出て岸に上がりましたが、身体に1カ所傷口があり、鮮血が滲み出ていました。発正念後、私は自分が見たことをAさんに伝え、そのシーンは、ある方面であなたが法から離れていることを意味していると伝えました。しかし、どうして傷口があるのでしょうか? 今になって、ワニの傷口が示すことが何かわかりました。それは今回の連行を指しています。大法弟子が法から離れると邪悪は手を下す機会を見つけるのです。

 Aさんが連行される前のもう一回の交流のなかで、私は思わず口から、「あなたがこのままだと、何か起きます」と言いました。この言葉を言うとき、私自身もびっくりしました。当時、私たちはだれも現在のような恐ろしい結果が待っていると思いませんでした。

 その長い交流の後、Aさんはまた2回私のところにきました。Aさんは自分にとても大きな問題があると感じながら、それがなにか意識できていなかったのです。毎回私が話す言葉を彼女は真面目に聞き、真面目に考えていました。私が何を言っても同じ態度でした。しかし、私が何を言っても、Aさんは分かったと感じても、Aさん自身の根深い観念に引っ張られて、自分の問題自体を否定しました。

 長い間積み重なった嫉妬という悪意と、長い歳月のなかで形成された山のように動かしにくい観念は、すでにAさん本人の無視と放縦から、はっきり認識しにくく、乗り越えにくい程度まで大きくなり、時には、それほど主観的で、それほど理解できないようにさせました。その後、一度交流が終わった時、彼女が立ち上がり、去ろうとした時、私は頭をあげて、Aさんの顔を見た時、びっくりして息を呑みました。「ちょっと待って、帰らないで」と言い、私は少し躊躇しましたが、やはり私が目にしたことをAさんに伝えました。「あなたの顔はすでに歪んで、変形しています。非常に恐ろしいです」と言いました。その後、私はAさんに電子メールを送り、再びAさんの問題を交流しました。Aさんは私に「ありがとう」といいました。Aさんはすでに私が言ったことについて考えていました。もし私が伝えなければ、Aさんは本当にそれらの問題に気づかなかったのです。しかし、残念ながら、Aさんが分かる前に、邪悪が手を下しました。

 今回連行された後、Aさんは、邪悪が一部の同修の情報を収集していると伝言を送ってきました。Aさんは、この方法で同修らが迫害されないようにさせようとしていました。Aさんはあれほどの邪悪な環境の下で、こうしたことで負うリスクが何かを想像できました。私は心に熱いものが生まれました。危難のなか、Aさんの大法弟子の本性が現れました。これこそ、Aさんの本来の姿なのです。生死の瀬戸際で、Aさんがまず考えたのは他人の安否でした。しかし、このように恐れない同修が嫉妬心のため、今回の巨大な難に遭いました。

 私のまわりにはまたこのような同修がいます。嫉妬心の問題において、非常にひどいのです。嘘をつきながら、彼らの執着を覆い隠します。一部の人に、私は面と向かって、話したくありません。なぜなら、話す意義がないからです。これらの人は自分が嘘をついていると認めないのです。しかし、私は知っています。彼らには非常によく修めている部分があり、彼らには非常に人を救いたい心があり、またその役割を果たしています。

 師父は「嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります」[2]、「嫉妬心はまた修煉仲間を傷つけます」[3]と説かれました。これは重大なことではありませんか? そうです、旧勢力の按排と迫害に対して、大法弟子は全面的に否定しましますが、何をもって否定するのでしょうか? 人心でしょうか? 旧勢力と同様に嫉妬という悪念でしょうか? それでは、誰が按排した路を歩むことになるのでしょうか? また、至るのはどのような境地でしょうか? このような同修を非常に心配しています。彼が危険の縁まで歩んでいくこと、彼らが旧勢力のひどい迫害に遭うことを非常に心配し、更に彼らがそれによって、未来へ入れないことを心配しています。ですから、このことについて書き出し、このような問題のある同修に、自分の修煉に対して責任をとるよう注意を促します。

 また同修に、迫害されている同修が一時的に愚かで、間違った考えを持っているからといって、彼らを救援する自信と情熱をなくしてはいけません。救援を緩め、放棄してはいけません。私達の持っているすべての能力を尽くすべきです。大法弟子が旧勢力に迫害され放題にさせるわけにはいきません。それは師父の望むことではありません。

 同修にとって本当によいこととは何か

 私が上に述べた同修はかつて笑いながら、私にこう言いました。「あなただけが私の問題を言ってくれます」と。その意味は、彼女の修煉中の問題を指摘する人はめったにいないということです。その同修自身も、ほかの同修の問題が見えても、めったに面と向かって伝えることがありません。人を怒らせたくないと正直に私に伝えたことがあります。

 私は一度、自分が迫害されて刑務所に入っている夢を見ました。その後、そこで同修に会いました。私は非常に怒って、「あなたはどうして他人の問題を目にしても指摘しないのですか? それが原因で私はここに入ってきました」と言いました。夢のなかでも同修は何も言いませんでした。いつもの通り、微笑んでいました。それに私は更に怒りました。同修の問題を目にしても、タイムリーに指摘しない、あるいはまったく指摘しないことは、私の周囲では結構普遍的な現象です。

 一度、ある同修が連行されました。同修たちは急いで弁護士を探しまわりました。これはもちろん当たり前のことです。しかし、私が考えたのは、どうして、このような救援を同修が連行される前にしないのかということでした。どうして、目にした問題を言い出して、同修がこのような迫害から免れるようにしないのでしょうか? 指摘したのに聞かないのは別のことで、言わないことはまた別のことです。今回同修が連行されたことも同じく、Aさんの問題をAさんに伝える人はほとんどいませんでした。目にしていないのではなく、ただ言わないだけなのです。私が思うには、どうしてこれほど慈悲心がなく、言わないのでしょうか。どうして、同修があれほど大きな執着を抱えているままにしておくのでしょうか。どうして、この執着がその同修に更に大きな危険をもたらすことを心配しないのでしょうか。

 「ただ本を読み、法を学べば、自分で認識できる」と一部の同修は言います。その意味は相手に注意を促す必要はないということです。このような責任を負わない言い方は、見た目はもっともらしいですが、善の心がありません。もし本当にそうであれば、なぜまた法会を開き、交流するのでしょうか。修煉者はつね日頃理性的に自分のことを見ることができません。多くの場合、善意をもって、互いに注意を促す必要があります。

 実際、本当に修煉する人は、あなたが相手の問題を指摘してあげたら、彼は自分に向けて探すはずです。当時気づかなくても、後になって、かならず自分に向けてみるでしょう。

 同修の執着が見えたら指摘してあげる、これは本当に非常に重要なことです。しかし、私も知っています。非常に多くの同修はそんなふうにしません。一部の同修は人を怒らせたくなく、あるいは人の前で自分の善い人のイメージを保つために、相手の不足を言い出そうとしません。見た目はそれほど温和で、それほど寛大で思いやりがあり、善良ですが、実際、それはただ善い人を演じているだけで、本当によい人ではなく、相手のために考えることでもなく、少なくとも、この点において、内心の深いところは私の心なのです。本当に相手のために考える人は他人に悪い人と思われることを恐れず、見えた問題をタイムリーに言い出す勇気があり、それによって、相手が旧勢力により強いられた魔難から免れさせます。

 もちろん、一部の人はただ単に指摘した同修の口ぶりを強調します。でも、それが、私達が善を勧める阻害になってはならず、善をなすことを止める理由になってはいけません。なぜなら、修煉している人は、修煉している神ではなく、意識できてない人間のものがあり、言い出す言葉は純粋でない部分があり、それは私達が絶えず認識し、修めていくべきものです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『法輪功』「第三章 心性を修煉する」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/27/333593.html )
 
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