「仕事をすること」は「心を修めること」ではない
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 【明慧日本2016年8月13日】昨日、同修達と一緒に法を学びました。一人の同修がある年配の同修に問題点を指摘した時、その年配の同修はとても反発しました。私は彼女に、人に指摘されたくない心と人を嫌う心があるのではないかと指摘すると、年配の同修は、「他人の指摘が明らかに間違っている場合、それでもその通りにしなければならないのでしょうか」と言いました。私は「必ず人の言われる通りにしなければならないのではなく、その時に現れた執着心を取り除くべきではないでしょうか」と答えました。

 年配の同修はやはり分からないようでした。彼女は、「例えば、同修のA さんが私の家に来て、関係のない話を午前中ぺらぺら喋って帰らず、私はとても苛立っていました。そうした場合、私はどうすべきでしょうか。彼に指摘して、帰ってもらった方がいいでしょうか、それは嫌悪する心ではありませんか」と言いました。「実は、彼が帰っても、帰らなくて、あなたが嫌悪する心はすでにそこにあるのではないでしょうか。私たちはまさしくこの心を修めるべきではありませんか。嫌悪の心を持たないで、態度を表明するのならば、全然構いません。ただ執着心に動かされるままに、物事を運ばないことが大事ではないでしょうか」と私は言いました。

 家に帰って、さらにこの問題を考えました。一部の同修も自分も以前悩んでいたのは、つまり、「自分がこの行動をとってしまえば、このような心を持ってしまうのではないか」という考えでした。実際はどうでしょうか。まず、そのような心があって、そして、その心に動かされ、結果として、そのような行動をとってしまったのではないでしょうか。行動と執着心との間に必然的な関連性はなく、何もしなくても、その心はすでにそこに存在しているのです。行動はあくまでも、その執着心を反映して表に現れたに過ぎません。

 私自身の例を挙げてみましょう。以前いつも嫌悪の心を持って同修に問題を指摘しました。その結果、口調が固く、態度も感情的でした。それは正しくないと意識し、同修からも指摘を受け、私はこの心を取り除こうとしました。しかし、「この心」を問題視せず、行動だけにこだわっていました。私は、できるだけ同修の中で言葉数を少なくし、他人に関心を持たないで、人に意見を言わないようにしました。しばらくの間、確かに、トラブルは少なくなりました。この結果から、嫌悪する心はずいぶん弱まったと勘違いしていましたが、実際はどうでしょうか。その心はまったく修めておらず、ただ、刺激されないように、上手に隠して、表面に出て来ないようにしただけです。

 その後、このような状態は法に則っていないことに気づきました。師父は私達に、はっきりとわかっていながら、この心を取り除くようにと説かれているのに、私はその心を慎重に育てているのではないかと思い付きました。気が付いてから、私はいつも通りに行動をとり、やっている過程において、その心が出てくれば、すぐにそれを掴んで、消去し、できるだけその心に動かされないで、同修に指摘するようにしました。

 「心を修める」というのは形の伴わないもので、心を静めて行わなければ、なかなかその心を捉まえられません。一方、「仕事をする」ことには形があって、分かりやすく、捉えやすいのです。それは、多くの同修が、「仕事をする」ことを「心を修める」ことにすり替えたのが原因ではないでしょうか。

 師父は私達に「われわれの法門では、常人の中で修煉する部分があって、常人社会に身を置きながら修煉し、最大限に常人と一致を保つよう求めているのであって、物質的利益において本当に何かを失わせるのではありません。どんなに地位の高い官職に就いても、いくら大金持ちになったとしても、いっこうに構いません。最も大切なのは、それらのことに対する執着心を放棄することができるかどうかということです」[1]と説かれています。

 私達は毎日繁雑な仕事の中で、複雑な人間関係の中で、騒ぎ立てる常人社会の中で生活していますが、いかに師父の法の内包を真に理解し、その複雑な環境を突き破り、物事の表象を通して本質を見抜き、後天的に得られた観念に動かされず、着実に自分の心を修めることこそ、真に修めることではないでしょうか。

 結局のところ、やはり私たちは修煉とは何かを根本的に理解しておらず、師父が教えてくださった修煉の「万能の宝」である内に向けて探すことをしっかり身に着けていないのではないでしょうか。私たちはトラブルに遭えば、いつも「相手を見て、自分を見ず」、それを内に向けて探していないと見なしていますが、実は、それは自分の行動の是非を見ているだけで、自分の執着心に辿りついておらず、真に内に向けて探していないのです。人の道理で物事を評価し、法理で執着心を探さないのなら、低い境地の基準で自分の執着心を放任しているだけです。もっと高い基準で勇猛精進できなければ、結局、真に内に向けて探すことではありません。

 師父は漏れが一つもなく修めてほしいと求められています。今日に至っても、どれだけの同修がまだ本当に内に向けて探しているでしょうか。法を正す時期が終了する日に、私達はそれぞれの基準に到達できるのでしょうか? 残った時間は本当にもうありません。しっかり自分を修めて、はじめて師父の慈悲なる済度に背かないことになるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/3/332353.html)
 
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