法を学び法を暗記することで執着を取り除く
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文/台灣大法弟子

  【明慧日本2017年6月6日】今まで私は同修が交流した法の暗記の心得をよく聞き、自分もやってみようと思いましたが、行動には移しませんでした。ある日の茶会で、ある同修は再びどのように法を暗記するかについて話しました。そのとき、私は法を暗記する気持ちが再び現れました。この同修は暗記するなら毎日やり続けることがとても肝心だと強調しました。私は茶会から帰ってきた後、まず『洪吟』を暗記し始め、その後、毎日数段を暗記しずっと今までやり続けてきました。

    法を暗記している中で、今まで自分が悟っていなかったものを法を暗記する中で幾重にも悟ることができ、自分の各次元での執着も見えてきました。法を暗記する過程で、多くの心性や思想業力に妨害され、落ち着いて法を暗記できないこともありました。私は師父が轉法輪』でおっしゃった、「しかしほとんどの人は強い主観思想(主意識)を持って、それを排除し、それに対抗することができます。そうであれば、その人は済度できる人です。善悪の分別がつき、つまり悟性の良い人ですので、わたしの法身が手助けをして、そのような思想業の大部分を消去してあげるのです。このようなケースは比較的多く見られますが、しかしひとたび思想業が現われてきた時に、それに打ち勝つことができるかどうかは、本人次第です。動揺しない人なら、業を消すことができます」を思い出し、いくら忙しくでも、法を暗記するという一念を堅め、負の要素につけ入る隙を与えないようにしました。

    法を暗記している間、私は自分の深く隠れている怨恨心が幾重にも溶けて消されたのが見え、自分を規正し続けると、自分の心も柔らかくなりました。以前、私は夫の多くの行為がとても嫌でした。法を暗記してからは、自分を修めることがよくできていないから、このようになると悟って、とても辛く思いました。師父は『ヨーロッパ法会への祝辞』で、「修煉者は永遠に自らを修めるしかないのです。人心のわずかな変化も、すなわち向上であり、神々には皆それが見えるのです。大法のために修煉しているのでもなければ、大法のために人を救っているのでもありません。修煉は生命を円満成就に向かわせるための保障です。人を救うことは修煉者の慈悲深さの現れであり、衆生が危難に晒(さら)されているときの責任です。多すぎる執着、強すぎる執着を放下し、自らの道をしっかりと歩む、この過程は即ち、皆さんの道なのです」とおっしゃいました。この一段落の法を繰り返して暗唱しているとき、私は深く覚悟できました。

    長い間、私は「時間を守る」という意識をあまり重視せず、いつも余裕を持たず、何事もぎりぎりまで時間を計算してやることで、自分を絶えず緊張させていました。この癖を修めず、それは一つの黒色物質のように私の空間場で働いていました。

    はじめて高雄の団体と協力するとき、私は場所を導く仕事を任されました。最初の3日間はまだいい状態で、自分がどこが良くないかも気づきませんでした。最終日に、私は再び手伝いに行きました。結局、私は多くの人心が現れました。同修はみな早めに会場に着き、法を勉強し、正念を発し、全体の中に入り込み、自分と全体の空間場をきれいにしましたが、私は遅れて行き協調人に心配をかけました。同修は私を見て、「このようにしてはだめですよ」と言われ、自分が悪かったと思いました。

   「時間を守る」ことは自分と他人に責任を持つ、人徳の一つです。今回のことから私は自分の大きな良くないところが見え、同時に同修の大きな寛容な心に感謝しました。

    以上は、私の一つの修煉体験ですが、妥当でないところがありましたら、慈悲なる指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/22/345952.html)
 
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