同修の「問題」を指摘したがる習慣を改める
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年6月9日】ある日、学法グループの3人の同修が互いに約束して、一緒に私の家に訪ねてきました。会話の全過程において、同修達が話していたことのほとんどは私の問題でした。もっとも私の心に触れ、同修たちが口を揃えて言ったのは、私が他人に「気が強い」という感覚を与えることでした。ある同修は「特にグループ学法の時、読み間違えた直後にあなたに指摘されれば、心は一瞬で凍り付く感じでした。その一行の文章を全部読み終えた後に指摘してくれればありがたいです」と言いました。(確かに、法を読み上げる際、私はめったに読み間違えません。そして、私からの他人の読み間違えを指摘する回数がもっとも多く、しかも気づいたらすぐに口に出します。同修の読み間違えとほぼ同時に、私の口からすでに正しい字の発音が出ていました)。私が理解するには、同修は自ら間違いに気づき、正しく読み直すことができるという意味でしょう。

 3人の同修が意見を言う際、私はずっと平静を保ち、いかなる弁明もしませんでした。恐らく同修達は今まで溜め込んできた意見をこの機会に一気に吐き出しに来たのでしょう。このすべては偶然ではなく、私の修煉のためにきた試練だと思いました。何と言っても、私は同修たちに嫌な思いを与えてしまったので、きっと私に問題があると思いました。同修たちが言っている間、私の頭には反論したい言葉が現れたり、あるいは相手の言葉の矛盾が見えたりしましたが、それらのことはその時において考えるべきではないと思い、出てきた念をすぐに排斥し、「本当の私」の考えではないと自分に言い聞かせました。

 その後、内に向けて探すとき、初めは「次回の学法の時、何をどうすればいいのか?」ということで、どうしたらよいか分からない感覚がありました。なぜなら、読み間違えを指摘する私の行為自体は間違っていないと思ったからです。「この件を通じて、私のどの方面の改善が求められているのか?」と私は自問しました。その時、師父の説法が脳裏に現れました。「邪党の国から出て来た人は自分を守る心が強く、一部の問題に対して意見を言いたい心も非常に強いのです。海外ではそうではありません」[1]

 問題はまさに、この強烈な「一部の問題に対して意見を言いたい心」です。常人の中で、私は思惟が厳密で、しっかりした自分の考えを持つ人間(言い換えれば、「自説に固執」しやすい人)で、何をしても根拠を備え、常に自分を正当化できます。修煉の中で、同修と交流する際は必ず自分の認識を述べることができます。つまり、常に話せる意見があって、語気や使う言葉も「肯定的」(言い方を変えれば、「絶対的」)で、指摘も「鋭い」のです。ある日、同修が自分の姑や兄弟の妻同士のことについて言及し、彼女が話し終えた途端、私はこう聞きました。「あなたはこれらの話の背後に隠されている心に気づきましたか?」、「いいえ、わかりません」と彼女は答えました。「嫉妬心です」と私は言いました。同修はきょとんとして「そんなにひどくはないでしょう」と言いました。私は「問題を探す時、虫めがねで探してようやくはっきり見ることができるし、きれいに取り除くことができます」と言いました。個人の修煉の中で私はそうしてきました。しかし、虫めがねを持って他人を判断してはいけないでしょう。

 ある日、1人の同修が私にこのような話をしました。「何かの用がある時、あなたと交流したくても、どうしても躊躇してしまうのです。なぜなら、あなたと会話すれば、いつも圧力を感じます」。同修はなぜ私から「圧力」を感じてしまうでしょうか? それに、私から「気が強い」という印象を受けた同修もいます。これらの私の言動はまさに邪党文化の反映ではありませんか? 師父は説法の中で、中国大陸から海外に出た大法弟子が一日も早く思想を転換することを期待しているとおっしゃっています。中国大陸にいる私たちはなおさら自分の問題を直視し、邪党文化の影響を受けて形成された観念や思惟方式を自発的に改め、自身にある邪党文化の毒素を一掃すべきです。 

 昔、私は師父の講習会に参加したことがあります。当時の師父が説法される際の語気や優しさ、洪大な慈悲を思い出すとき、自分が同修たちに与えた心の傷を思うと、恥ずかしくて涙が溢れました。

 今回、同修たちの指摘を機に、私はこの問題を直視し、自分を変えるべき時期が来たと思いました。次の学法のとき、自分をコントロールするために、私はずっと唇を噛んでいました(数時間噛んだせいで、水泡ができてしまいました)。読み間違えがあった時、私は何も言いませんでした。以前、指摘したことのない同修でさえ口を開きました。一講を学び終えた後、ある同修はこう言いました。「今日のこの学びの場はすごく穏やかでした」。確かに、私が変わり、みんなも変わったように感じました。続く交流の中でも、私はずっと唇を噛んでいて、「今回はひたすら聞くことにしよう」と自分に言い聞かせました。途中、同修が3回も私に「何か言いたいことはありますか?」と聞きましたが、私はそっと「ないです」と答えました。別の同修が「お姉さん、今日はどうして話さないのですか?」と聞いたとき、私は「特に言いたいことはありません。みんなが言っていることはすごくいいので、私は聞くだけで良いです」と答えました。この話を言う時、私は内心の穏やかさを感じました。

 この件が過ぎた後、自分自身も「表現したい」心がだいぶ取り除かれたことを感じ、法を読む時の声にも変化があって、更に穏やかになったと実感しました。ある同修は(前回、3人の同修が私を訪ねた際、彼女も偶然にその場にいました)こう言いました。「今回、あなたは本当に変わりました。以前、あなたが他人に話をするとき、いつも『そうではありません』と言っていましたが、今は言わなくなりました」。同修が言わなければ、以前の自分は無意識のうちに他人を否定し、自分を肯定していたことを意識すらしませんでした。

 眞心から、率直に進言してくれた同修たちに感謝します。師父はこのようにおっしゃっています。「修煉者は永遠に自らを修めるしかないのです。人心のわずかな変化も、すなわち向上であり、神々には皆それが見えるのです」[2]。私達は毎回の人心を取り除く機会を大切にし、たとえ小さな変化であっても、着実に自分を変えていくべきです。人心を取り除き、大法に同化し、人が神になる道のりにおいて着実に一歩ずつを踏み出し、法を正す師に手伝う中でよりよく進んでいきましょう。

 交流のために、以上を述べさせて頂きました。適切でない部分があれば、ご指摘をお願いします。師父に感謝します!  同修のみなさんに感謝します!

 注:

 [1] 李洪志師父の経文:『世界法輪大法デーの説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会への祝辞』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/5/4/346681.html)
 
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