「指摘されたくない心」を分析する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年4月3日】病業のある同修を助けるさい、私は同修の間に、ある共通の問題が存在することに気づきました。それは「指摘されたくない」という名声を求める心です。この執着心は修煉者の心性の向上において大きな妨げとなっています。師父は説法の中でもたびたび重点的に指摘してこられました。本文を借りて、同修の皆さんと交流し、ともに向上していきたいと思います。

 多くの家族同士の同修、あるいは長期に亘り病業から抜け出せない同修には、他人からの指摘を受けたくない問題が存在します。あなたが指摘すれば、彼はすぐに口実を探したり、話題をそらしたりして、あなたに続けて話させない状況を作ります。一方で、指摘する側の多くも独りよがりで、他人の感受を無視して自分の意見を押しつけ、「私は好意で、あなたのために言っているのに、なぜ感謝しないの」という考えを持っています。この好意の基点は自分の基準であり、しかも自分の親切が仇になってしまうことで相手を良心のない人と考えてしまいます。多くの常人はこのような悪循環の中にいながらも己を知らず、家庭関係の悪化を招き、お互いを恨んでいます。片方は指摘が相手のためになると勝手に思い、もう片方は理解や尊重されない苦しみに耐え続けていると感じてしまいます。修煉者が長くこのような家庭環境にあれば、魔難が訪れてきます。

 師父はこうおっしゃっています。「人に指摘されたり批判されたりしてはならず、間違いを起こしても指摘されてはいけません。これではいけません。これでもまだ修煉者なのでしょうか? あなたが大法のこと、人を救うことを行っていても、修煉者として行うべきであり、常人として行ってはいけません。場合によって、間違いを起こし、ほかの人が善意をもって指摘しても、言い逃れようとしている人がいます。間違いがあると、すぐ言い訳をし、顔色を一つ変えずに嘘をついています。ひいては間違うと、言い訳をして客観的な原因を探しています。この常人にも及ばない状態はまだ大法弟子の行為なのでしょうか? 修煉者は相手からの批判を受け入れられるようになるべきであり、本の中にも書いています。また、一部の学習者は遠まわしに責任を言い逃れようとし、問題が起こると、あれこれのことを理由にあげていますが、どうしても理由が見つからない場合、造ってしまいます。(皆笑って)『あなたたちには分かりませんが、当時はこういう状況だったので・・・』と言っています。(皆笑って) これはまだましなほうです。もっとひどい場合、少しでも触れてはいけません。こういうことが起こるとき、神はどのように皆さんを見ているのかを知っていますか? 旧勢力はすぐにあなたのことを覚え、今回の行動は弱みとしてそれらに握られてしまい、厄介なことがあなたを待っています。この方面の心性が低いため、大きな面倒を引き起こします。気をつけてください」[1]

 気性の激しい性格を改めない同修、または病業から長く抜け出せない同修は、魔難を招きやすいのです。この場合は少し厄介です。しかし、少しずつ自分の魔性を取り除いて、初めて病業の仮相を乗り越えることができます。

 この問題に関して、私はこう認識しています。人から言われたくない、あるいは表面では穏やかに聞くふりをしていて、内心ではまったく受け入れる気がなく、まったく悔い改めるつもりがない人の大半は、事実に直面したくないのです。一旦、過去数十年の苦痛が自分の心性の低さ、及び前世の業力によるものだという事実を受け入れてしまうと、今までの自分の良い人としてのイメージが全面的に否定されてしまうことになるので、「それはとても苦しいことで、今後、恐らく苦痛を訴える相手さえも見つからないだろう」と考えてしまいます。実際、成仏を目指す大法修煉者が考えることは常人とは本質的な違いがあるはずです。

 師父はこうおっしゃっています。「誰が正しいか、誰が間違っているのかを強調しないでください。いつも自分が正しいと強調する人がおり、あなたが正しいのであって、間違っていませんが、それはどういう意味があるのでしょうか? 法に対する認識が高まったのでしょうか? 人心をもって正しいかどうかを強調すること自体が間違っています。なぜなら、あなたは常人のあの理で自分を量っており、常人のあの理で相手に要求しているのです。神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです」[1]

 それでは、どのように人心による執着を取り除くことができるでしょうか? 私が思うには、その良くない偽の自我に勇敢に直面し、それと決裂する決心をすることが「真」を修める第一歩だと思います。名声を求める心は、他人からの認めや好感を好むことから由来し、それは情です。名声を重んじる人はもっと多くの人から好感を得るため、自分の非を指摘されることから免れるために、習慣的に嘘をついたり、真実を覆い隠したりして、責任を他人に転嫁し、自分の良さだけを見せようとします。名声を追いかける人は自分のこの情を守るために、きちんとした是非の道徳基準を持っていません。たとえ相手が不道徳な人であっても、自分に良くしてくれれば守ってあげます。たとえ相手が原則を守る人であっても、自分に良くしてくれなければ非難してしまいます。人間は情に駆りたてられたとき、多くの間違いを犯します。今の人類はすでに是非の基準や道徳のアンダーラインを失ってしまいました。多くの常人の堕落も情への過剰な追求と失望によります。修煉者はこの情を放下しなければ、自身の修煉に最大の妨げを設けることになります。

 正法修煉はすでに終盤に差し掛かっています。同修は皆、師父について家に帰りたいのですが、しかし、どのようにして自分を良く修め、衆生を救う使命を全うするかは本当に一大事になります! 重視せざるを得ません。自分を着実に修めて初めて師父の説法を真に理解できて、高い次元に上がり、真に衆生を救うことができます! そうでなければ、師父の説法もまともに理解できず、妨害やトラブル、迫害の中で自分自身さえも救えないのに、どのようにして衆生を救うことができるのでしょうか? 多くの病業の迫害を受けている同修は、自分1人のせいでたくさんの大法弟子の精力を費やしたあげく、この世を去りました。

 以上は現段階での個人的な悟りですが、不足な部分があれば同修のご指摘をお願いします!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「マンハッタン説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/12/27/321146.html)
 
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