【明慧日本2014年11月26日】指摘というのは、相手の過ちを相手が分かるように、穏やかに話す事です。責めるというのは、言葉で相手を追い詰めたり、苦しめたりという意味です。師父は説法の中で、私たちは同修の不足を見たら、善意を持って、相手のことを指摘するよう説かれました。つまり、私たちは何の観念を持たずに同修の過ちを指摘すれば、同修は自分の問題に気づき、自ら向上することができます。
しかし、私たちは法を正す修煉の中で、本当に相手の立場になって、相手の角度から問題を考えることが出来ないことによって、同修の問題を指摘する時に、自分の観念を加えてきました。すると知らないうちに、同修の問題を指摘するつもりが、同修の問題を責めることになっていました。
旧勢力はこのような現象を見たら、私たちの隙に乗じます。すると同修の間で、トラブルがあったり、お互いに愚痴を言ったり、責めあったりしました。そして、これらを全て同修のためと思い込んでいます。このようにして、トラブルが解決できないだけでなく、かえって揉めることになりました。そのせいで三つのことが遅れました。
師父は『轉法輪』で「わたしは、法を伝え、功を伝えるにあたって、常に社会と学習者に対して責任をもつことを念頭においてきました。ですから得られた結果も良く、社会に与えた影響もかなり良いものでした。」「講義の中では、修煉界に見られる良くない現象にも触れる予定です。それらのものにどのように対処すればよいか、どうとらえたらよいかについても、すべてお話ししたいと思います。それから、高い次元において功を伝え、法を説くとなれば、かかわりを持つ問題が幅広く、大きいばかりでなく、非常に微妙な問題も絡んできますので、これらについても明らかにしたいと思います。また他の空間からの、われわれ常人社会への妨害、特に修煉界に対する妨害についても明らかにしますが、同時に、われわれの学習者のためにこれらの問題を片付けてあげなければなりません。」と説かれました。この法を通して、私は悟りました。師父は人類社会に対して、完全に常人社会に責任を持ち、修煉界に責任を持ち、決して責める意味がないので、良い効果をもたらしました。私たちは師父の行いに従っていけば、未来の衆生たちに、人が神になる道を残すことが出来ます。
個人の悟りです、適当でないところがあれば、指摘ください。
(English: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/2/2/44695.html)