ニューヨークの西洋人大法弟子の修煉体験(一)
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文/ニューヨークの西洋人大法弟子 

 【明慧日本2014年11月1日】ニューヨーク市は2012年、幸運にも神韻公演を2回も迎えました。1回目は1月で、2回目は4月でした。今日は神韻公演を宣伝する中での修煉体験を皆さんと分かち合いたいと思います。

 1月の公演が終わった後に、私たちは一刻も休まずに4月公演の宣伝に取り込みました。1月の公演はとても成功したため、我々は延長戦として、観衆が4月のチケットを予約してくれるように、テレビにコマーシャルを出しました。通常、人気のある公演の次回公演は、皆が奮ってチケットを予約するので、二回目のチケットはとても売りやすいです。しかし4月のチケットはなかなか売れ行きが悪く、常人社会の経験は必ずしも神韻に通用するとは限らないと私たちは気づきました。そこで、神韻は常人の公演と違い、私たちの修煉と協力こそが大切だと皆は共に意識しました。

 神韻宣伝チームは交流を行って、心性を高めてこそ4月公演のチケットを完売することがはじめてでき、今回、我々に対する基準はまた高くなったと皆が認識しました。

 私たちはニューヨーク各地で様々な販売ルートを展開しました。多くの同修はチケット販売に出遭った困難を語り合っています。販売拠点ではチケットがなかなか売れないと聞いた時、私は思わず自分が担当する拠点のことを思いつきました。自分の修煉状態はチケットの売れ行きに影響を出していると発見しました。

 私はチケット販売拠点に行くある日、明け方に目が覚めて、その時頭に浮かんだ第一念は「今日はベストを尽くして衆生を救いたい」でした。衆生を販売拠点に行かせてください、と私は最も純粋な心をもって師父に願いました。そして、私は学法煉功をしました。以前、その拠点に客足が少なくてチケットが売れないと聞いたのですが、しかしその日に多くの客は進んで公演のことを尋ねに来て、「この公演を聞いたことがある。私はとても観に行きたい」と言ってから進んでチケットを購入して、私からの説明や紹介すら必要しませんでした。私たちの心がどんなに重要かが、その日に私は分かりました。私たちの心理状態が師父の期待に合った時、誰もが私たちが衆生を救い済度することを阻止できません。

 師父は『轉法輪』に「わたしは常人の中に身を置いており、人を済度するという有為のことをしており、心は人を済度することにあります」とおっしゃいました。私は思わず「私の心は師父のご期待に合っているか、朝起きた時、一心に衆生済度のことを考えたか、それとも自分の生活の煩わしい事ばかり考えたか」と自分に問いかけました。恥ずかしいことに、神韻がもうすぐ到来する肝心な時にあたって、私は誠心誠意、衆生を救おうと思いませんでした。そこで、いっそう修煉において精進して、衆生の救い済度を第一位に置こうと私は決心しました。また、衆生との出会いに偶然なことはなく、誰がどこに行くかはすべて按排されていると思います。『スイス法会での説法』で説かれた「また私達が外で煉功すれば、法身はその人が煉功点に尋ねて法を得るように按配するのです」のとおり、もし私たちが誠心誠意、衆生を救おうと思うなら、師父の法身はきっとその救われるべき人をチケット販売拠点に行かせると私は悟っています。

 相手に無条件に円容することの大切さも私は体験しました。ある日、私はチケット販売拠点に来たら、ある同修にチラシを配ることを頼まれました。もともと私は他の仕事をする予定だったのですが、しかしすぐに「どんな仕事をするかは重要でない。重要なのは同修に協力することだ」と考え直しました。相手に円容したい気持ちは正のエネルギーの場を作ったかもしれませんが、その日に多くの客が販売拠点に興味を示しました。 

 後期にチケットの売り残りが多くて、焦ってしまう立場にならないために、一日も早くチケットを完売させたい気持ちは、皆のもう一つの執着になったと私は思います。その焦る気持ちは広告の効果や宣伝活動にマイナスの影響まで生じたと思います。神韻宣伝において適度な緊張感、早い行動は必要でないと言っているわけではありません。ただし苦を嘗めることを避けるために何かを期待したり、求めたりする心境は正しくないと思います。大切なのは師父が按排してくださった道を歩むことなので、人心をもって何かを望むことではありません。ある出来事が良い事だと私たちは思っても、それは師父が欲しいものとは限らず、起きるべき事とは限りません。衆生にとって最も良い事が何なのかを知っているのは師父しかいません。だから、私たち自身は物事がどのように発展するかに執着してはいけないと思います。

 1月と4月の公演に際して、ニューヨークの大法弟子たちは発正念を非常に重視して、良い効果も収めました。学法と交流の時はもちろん、別途に発正念の時間も設定して、時間も15分から30分に延長しています。それに参加する中で、正念の大切さがいっそう分かって、自分のどこを改善すべきかも分かりました。第一に、禅定に入る時に雑念を除去することの大切さが分かりました。

 私が座禅を組む時、もし心に何かを考えているならば入定ができません。三界の中の粒子は私をこの空間に縛って、入定させないと感じています。本当にすべてを放下してこそはじめてより高い境界に達するので、心の中にたとえほんの少しの執着があっても、他の空間で功能を発揮できなくなります。

 第二に、大法弟子のエネルギーは師父を信じることに由来することが分かりました。一部の同修は師父を信じているが自分に自信がなく、自分が発した正念に威力があると思わないと言っています。それはやはり師父を信じないことではありませんか? 師父は弟子に法輪を与えて、弟子は修煉の当初から功能を持っているのではありませんか? 師父は『大法弟子とは何か』で「大法弟子よ、皆さんの正念は作用があるのです。一人ひとりが働いた作用が合わさると、巨大無比なものになります。それほど大きな作用が現れなかったのはあなたの信念が足らず、正念が足りないからです」と説かれました。

 だから、自分が出した正念の効果を信じないことは、師父の言葉を信じないことに等しいではありませんか? 私の経験したことと見たことによれば、師父に対する「信」が足りない時、発した正念は他空間では微弱で不安定なものとなって、すぐに散ってしまいます。確固不動な「信」で正念を発したら、正念は他の空間で比類のないほど強いエネルギーになって、発正念が終わった後も長く存在します。

 (続く)

 (2012年ニューヨーク法輪大法修煉体験交流会での発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/5/26/257840.html)
 
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