何が私達を精進させないのか
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年9月15日】最近、同修との会話の中で、いくつかの問題に気付きました。私はそれを書き出し、同修達と交流したいと思います。

 一つ目の問題です。相手の不足に話が及ぶと、故意であろうと、無意識であろうと、また、修煉のことであろうと、生活の事であろうと、その人はすぐに話題を変えてしまい、しかも、その話題を切り換える方法が非常に熟練しています。これはまだよい方ですが、ひどい場合、その話の矢先を直ちに相手の人の方に向かせてしまうこともあります。表面上では、これは問題を回避しているように見えますが、実はこれは一種のずる賢い振る舞いです。師父は「ずる賢い人は悪い人です」[1]とおっしゃいました。

 私には問題を回避する傾向があり、時には自分の問題を直視する勇気もありません。また、法を学ぶ時でも、自分が抱えている問題に触れるような内容を読むと、その部分を早くとばして、逃げたくなります。それから、法を学ぶ時、師父が弟子に対して、ある基準に到達してほしいと書かれたところは、自分がその基準に到達していなければ、心はとても消極的になります。例えば、師父は「私はいつも言っていますが、心から相手を思い、私心が全くなければ、あなたの言葉は相手を感涙させます。試してみてはどうですか?」[2]という説法を読んだ時、私の頭に浮かび上がったのは「私にはできません」という考えでした。

 ある日、私は同修とこの問題について交流しました。同修はとても真剣に、「法を学ぶ時も、自分を修めなければなりません。法を学ぶ時、自分の正しくない観念を変えるよう努力しなければなりません。これも修めることです。毎回法を読む時、自分の観念を変える事ができれば、それは自分の向上に繋がります」と言いました。私はなるほど、その通りだと思いました。次に、師父の先ほどの説法を読んだ時、私は心の奥から、「師父、私はできます」との一念を発しました。

 二つ目の問題は、一部の同修がいつも「自分を探す」という言葉を口にしていますが、しかし、実際には、本気で自分を探すことをしないことです。たとえ探しても、表面に留まり、深く根を掘って、原因究明をしないのです。

 三つ目の問題ですが、同修達が一緒に何かを相談する時、いつも自分の考えが良いと強調し、いつも前に出しゃばって、甚だしきに至っては、お互いに、顔を真っ赤にしてまで言い争って、結局、何もまとまりません。私は、たとえ自分の考えが素晴らしいと思っても、過度に強調することはないと思います。ひたすら自分が正しいと強調することは、それはつまり袋小路に入り込み、極端に走っていることです。いくら正しくても、極端に走ると間違ってしまいます。ですから、相手の意見を受け入れ、お互いに補い、加減を程よく把握し、適度に行うべきです。こうすれば、皆が一緒に相談すれば、話がまとまり易く、お互いにもっと協力できるようになります。

 四つ目の問題は、「情」に執着することです。多くの老年同修は自分の息子や娘、或いは孫や孫娘に執着しています。私は毎回家に帰ると、必ず同修である母とこの問題について交流します。弟夫婦は昼間に仕事に出かけているため、孫娘の世話はすべて母がやっています。昼間は仕方がないとしても、しかし彼らが仕事から帰って来ても、母はやはり手を離しません。弟夫婦は自分で子供の面倒を見ていても、母はしきりに弟夫婦の部屋へ行って、子供と遊んであげたりして、大事な孫娘が好きで仕方ありません。話をすると、その内容のほとんどは孫娘です。このような状況を見て、私は母に、これは強烈な執着心で、そして、自分の貴重な時間をすべて子供に費やしてしまう必要はないと指摘しました。また、このような妨害は邪悪な迫害と何の変わりもなく、しかも、本人がそれに気づかず、時間が長くなると、その人を精進できないようにさせてしまうと指摘しました。しかし、母はあまり私の意見を聞き入れてくれず、しかも、自分は執着していないと弁解しました。効果はあまりなくても、毎回母に会うと、必ず母に注意するようにしています。

 一部の同修は自分の子供に執着して、しかも、自分に堂々とした理由を探して、「もし息子(娘)が修煉をしていなければ、私もこれほど執着しません。私のこの心遣いは、彼らに向上させ、精進させるためです」などと言っています。もちろん、子供の修煉を応援することは間違いではありませんが、しかし、実際のやり方は度を過ぎてはいけません。このような老年同修の場合、子供たちの一挙一動が自分の心に影響を及ぼし、何をしても、落ち着きはありません。実際、自分の子供に対して、他の同修と同じような態度で接していれば十分です。過度に執着すると、自分が払った努力に対して、お返しが得られない時、心のバランスが崩れ、平常心を失ってしまいます。しかし、それは誰の責任でしょうか?

 私がこの文章を書いたのは、同修を責めるためではありません。私は、皆が執着に気付き、それによって、その執着を放下し、共に精進できるよう願うばかりです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/9/5/296918.html)
 
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