「人情」と「私心」についての見解
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年7月6日】長い間、私は一つの問題について、どうすれば良いか分かりませんでした。ある同修は私にこのような見解を言い、別の同修はあのような見解を言い、私は誰の見解を聞くべきか、とても困っていました。特に、具体的なプロジェクトを行っているときに、私の周りにいつも違う見解がありました。時には、全く違う方法の提案もありました。この人の方法を聞いたら、あの人の方法を捨てなければなりません。両方の提案を混ぜれば、逆効果になるかもしれません。自分は私心があるので、ほとんどの場合、考えを決定していません。もし何かがあっても、私を責める人は少ないのです。なぜかというと、私は強制して物事を行っていないからです。

 私の私心により、多くの問題が直ちに解決できませんでした。自分の過ちを直していないので、私の周りに意見が違う同修が現れました。私は人の見解を気にしすぎます。そして、人は自分のことをどう見るかを気にしすぎます。物事を行うとき、「自分の何かが人に指摘されたら、どうしよう?」「執着心が強いと人に思われたら、どうしよう?」といつも心配しています。しかし、これは私の根本的な執着心です。この執着心は一種の情であり、私心でもあります。

 自分はどうして人の見解をそんなに気にするのでしょうか? よく考えてみると、やはり私は法に基づくことがなく、人の個人的な認識を重視しています。そのため、人に左右されやすいのです。これは人に学び法に学ばないことになっているではありませんか? 師父は「法を師父として、法で物事を判断します」と教えてくださいました。また、師父は「一人の人間として、宇宙の真・善・忍の特性に順応できる人だけが本当に良い人で、この特性に背く人が、本当に悪い人です。職場で、あるいは社会で評判が悪くても本当に悪い人とは限らず、逆に評判が良くても、必ずしも本当に良い人とは限りません。一人の修煉者として、あなたがこの特性に同化すれば、得道した者となるのです。理はこんなにも簡単です」[1]と説かれました。私の理解では、普通の人でも良し悪しを法の基準で判断するため、修煉者の場合、法を基準にするしかありません。同修の個人的な見解を基準にしてはいけません。彼の悟りがいくら高くても、いくら良くても、それもただ無辺の大法から悟ったものにすぎません。それは彼の次元で悟った法理です。私の認識ではありません。彼の話は参考にすればいいのですが、指導することはできません。

 悟った後、私は何らかの物事を行う時、「このようなやり方は法を正すことにどんな効果をもたらすか、法を正すことにプラス効果になるか、マイナス効果になるか」を考えれば、どう行うべきかすぐ分かるようになりました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2001/10/14/17897.html)
 
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