文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年11月26日】私は大法を学んでいるため、真面目で誠実な印象だと常人は思っています。ある時、友人は私に言いました。「あなたは人は良いが、ただずる賢いところがあります」。その時、私は全然気にせず、冗談に過ぎないと思いました。その後、師父の『ニュージーランド法会での説法』を学んだとき、師父は「私たちは時に常人の中にいて考え方は実にずる賢いのです。他人があなたに少しばかり良くない話やあなたの考えに合っていない話をすると、警戒心を強め、自己を防衛し、他人を攻撃しようという思いが浮かんできます。これは完全に修煉者としての状態に符合していないのです」[1]と語られました。私は師父の説法に基づいて、内に向けて探してみると、この説法は自分のことを指しているではないかと意識しました。
確かに、私は常人との付き合いの中で、いつも、相手の話に何の意味があるかとあれこれ憶測しています。この話は何の意味があるのか? もしかしたら、わざと自分に話しているのか? などと常に考えています。気にならなかった場合は、遠回しに言い返します。もちろん、私の顔色に何の変化も見えないのですが、心の中で色々考えていました。彼(彼女)は悪い人だ、警戒すべきです。気難しい人なので、接触しないように、騙されないように、損害を被らないように気をつけます。時間に経つにつれて、このような人に対して、自分の心の中に多くの壁を作ってしまいました。師父は私がまだ悟っていないことを見られ、友人の口を借りて教示されたと思います。
このような人間関係は疲れると感じる時があります。しかし、世故にたけるような話し方に対して、私は別に変に思いませんでした。このずる賢い心と自己を保護する心は修煉者との接触の中でもよく現れています。例えば、ある同修の法に基づいていない言動に気づいたとしても、多くの場合、私は善意を持って直ちに交流することができず、自分の本当の考え方を隠して話さないことになります。その時、自分は何を考えているのでしょうか? つまり、態度を示さず、直接に言わず、遠回しに話すというようなことを思いました。時々、同修たちは私の話を聞いた後、ますますわからなくなり、混乱してしまいます。
どうして自分はこのようなやり方をしないといけないのか? と考えました。実は、ずる賢い心は自己を保護するという一種の執着心であり、私心でもあります。修煉の道の障害物になります。私はこのずる賢い心を見つけ、必ず取り除かなければならないと決心しました。それから、私は人との付き合いの中で、相手の意図を図らず、誠実な気持ちで接していくことにしました。こうすることによって、私は雑念がだんだん少なくなり、心も明るくなり、身体も楽になりました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『ニュージーランド法会での説法』